ぱるばか日誌 2017
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『私はすでに死んでいる』 ― 私とは何か?
 著者のアニル・アナンサスワーミーはインド系の科学ライター。
 様々な神経症を通じて、「自己」とは何かに迫る。
 8つからなる章ごとに扱われる神経症は、コタール症候群とか身体完全同一性障害など珍しいものや、認知症や統合失調症、自閉症といった身近なも。身近なものについては、その神経学的なメカニズムが解説されており、参考になる。また珍しいものについては、単純に興味深い。
 さて、問題の、「私」ないし「自己」であるが、現在の神経学では、デカルト的に二元論はまったく否定されている。身体を離れた霊的存在は「無い」のである。本書もその線で書かれる。分析された8つの症例から見ても、霊的な自己は存在しそうもない。
 自己は脳の中に現れるのであるが、本書ではことに、身体の役割を重視している。それゆえダマシオなどの所論が随所に言及される。なかなか示唆に富むところである。

 スピ系にとって興味深いのは、体外離脱などを扱った第7章、恍惚てんかんを扱った第8章あたりだろう。
 神秘体験や至福感も神経的な現象に還元できる、というわけだ。
 そう言っちゃあ身も蓋もないんだが、まあ、そういうこともあるだろう。
 ともあれ、ブッダもアドヴァイタ哲学も無我を語る。本書の結びも「病は自己そのものだったのだ」という言葉だ。
 要は、人間が進化の末に獲得した究極の自己「ナラティブ・セルフ」すなわち多様な物語をまとった自己(ダマシオ流に言うと「自伝的自己」)と、上手に折り合いをつけること。どうやって折り合いをつけるかというと、瞑想修行なのだろう。ただそのあたりは本書の範囲外だ。しかしそこが肝腎なところだろう。どうやったら簡単に無我の境地に行き着けるか、神経学的に究明してほしい。(それから、邦訳タイトルとカバー写真がセンス悪い。カバー捨てた)
釜山博物館
 今、釜山に居る。
 ここは世界でもじつにユニークな場所だ。
 というのも、我々にとって世界で一番近い外国だからだ。
 それゆえ、昔から日本との関わりも深い。
 地理的な近さから日本人の来訪も多く、街には至る所に日本語の表記が見られ、日本語を解する人も多い。

 そんな釜山の歴史をじっくり勉強できるのが、市立の釜山博物館。
 ここはかなり面白い。
 先史時代から近現代に至るまで、広汎な展示が行われている。

 中でもやはり日本との関係が目を引く。
 考古学資料では、日本から渡来した縄文土器や、黒曜石の遺物などが登場する。新石器時代の昔から日本列島と朝鮮半島との間には交易があったのだ。
 そして、日本関係の展示がクローズアップされるのが、文禄・慶長の役、すなわち秀吉の朝鮮侵攻からだ。こちらでは壬辰倭乱と呼ばれる。釜山がその上陸地となり、大きな被害を受けたらしい。
 その後、江戸時代になると、外交使節である朝鮮通信使が釜山を基地として日本へとたびたび派遣される。使節団員の4分の1ほどが釜山の人間だったという。
 また釜山の一画に、ちょうど長崎の出島のような「倭館」が設けられ、日本人が居留し、日朝間の貿易に携わっている。
 朝鮮通信使は江戸鎖国期の文化交流として日本でも大きな歓迎を受けたようで、そのあたりの展示はほのぼのとしている。
 そして、時代は明治へと移り、日韓併合、植民地支配へと進むにつれ、雰囲気も重苦しくなる。
 展示は更に、日本の敗戦による独立(韓国では光復と呼ばれる)、さらには朝鮮戦争、戦後の復興と成長へと展開していく。
 朝鮮半島の歴史とともに、韓国第二の都市・釜山の成り立ちについて、ところどころに日本語の解説も交えつつ、いろいろ工夫して展示されている。

 ま、歴史も歴史だからな、国家としての団結を図るため日本を敵役にしているという面もあるが、それはお互い今後の課題であろう。
 我々が中学や高校で習った「任那」の記述がまったく無いのも特徴的。釜山もおそらくその「領内」にあったはずだが。その代わり、「伽耶」という国があったということになっている。

 歴史的な美術工芸もいろいろ展示されているが、やはり出色は半島の磁器であろう。
 高麗白磁や青磁、李朝の粉青沙器や白磁。これらは日本でも珍重されたものだ。このあたり、日本と朝鮮の趣味に共通するものがあるように思う。
 先進地・中国の磁器は、オレに言わしむれば、12〜3世紀・南宋で美の頂点に達する。その後、時代が下るにつれ技術的な精緻を極めて行くんだが、だんだん面白くなくなる。
 その点、朝鮮半島は、18〜9世紀になっても、ただの白磁を焼いている。このあたりがすばらしい。

 というわけで、なかなか良い博物館である。
『脳の意識・機械の意識』 ― 意識は脳内バーチャルCG!?
 脳化学者・渡辺正峰の著作。
 意識を巡る本は近頃いろいろあるが、日本人の著作だけあって(翻訳を経てないので)、いちばん最近の展開をうかがうことができる。発行は昨年11月。
 新書サイズの本ではあるが、意識とは何かという「ハードプロブレム」に関して、要領よくまとまっている。意識について興味ある人には、現在のところ一番おススメの本ではないか。
 意識についての論議は、拙ブログでも、ダマシオや、トノーニコッホドゥアンヌなどいろいろご紹介しているが、本書のがいちばん面白いかもな。
 曰く、「意識とは脳が脳内につくりだすバーチャルな仮想現実」なんだそうな。この仮想現実は、感覚器官などの入力によって絶えずアップデートされる。睡眠中など感官からの入力がないと、その仮想現実は夢となって現れてくる。
 これはフィンランドの哲学者レヴォンスオの考えを元にしているらしい。
 ま、あくまでも仮説で、証明されているわけではないが、こう考えるといろいろ辻褄が合うんだそうだ。

 意識とは何か、それは人類最大の謎であり、その解明への試みは始まったばかりだ。
 そもそも解明されるものかどうかわからないが、今まで存在してきた神経科学側からの定義の中では、いちばんピンと来る感じ。

 いずれにせよ、神経科学的に言うと、意識とはニューロンの活動にほかならないので、脳が働かなくなったら意識も消失するわけだ。
 本書タイトルの後半は「機械の意識」であるが、著者は半ば本気で、自分の意識を機械すなわちコンピュータに移し換えられると考えているようだ。
 幾多の技術的困難はあるが、意識が脳から機械に移植された時、「私」はどうなるか。それは乗り移った時のお楽しみ。
精子戦争
 人間は一夫一妻制なのか多夫多妻制なのか論議の分かれるところだが、論議があるというのはすなわち両方だということだろう。
 本書ロビン・ベイカー著『精子戦争』は、1996年原書刊行だからもう二十年も前に書かれた本だが、かなり面白い。
 キンゼイ・リポートやハイト・リポートより深甚な影響を与えてきた書だという。
 基本的に言うと、人間というのは、男女の生殖戦略の違いから、多彩な性行動を取っているということだ。

 生殖戦略の違いというのは、すなわち、男は多量の精子を生産・射出し、女は1個の卵子で身籠もるという違い。
 それゆえ、一面において、男はより多くの女に受精させ、女はより優れた男の精子を得ようとする。
 そして女の膣や子宮の中では、唯一の卵子に到達しようと、複数の男たちの精子が戦いを繰り広げる。
 ただし、人間のようにカップルを作る動物においては、男が他の女に手出しをしていると、その隙に自分の女に手出しされるという危険性がある。そして男にとっては女の腹の子が自分の子だという確証はない。
 また人間の子供は成長に時間がかかる。その養育には父親の助けが必要だ。男は自分の子だと思えば育児に協力的になる。
 そうした人間の特質を背景に、一夫一妻、一夫多妻、一妻多夫、多夫多妻、浮気、不倫といった、様々な性行動が生まれる。
 ま、しかし、一夫一婦制がいちばん安全で、スタンダードなカタチなんだろう。そうすれば少なくとも、両性ともに、少数ではあっても比較的確実に子孫を残せるわけだ。
 ただ動物界では、一夫一妻制は極めて少数派ではあるらしい。

 本書によると、「一夫一妻など長期の関係は、約三百万年間、人間のセクシャリティの一つの特徴だったと考えられる」。
 また、「一夫多妻制に変わったのは、わずか約一万五千年の間の農耕に依存した時代のことである」。
 そして、「都市化と工業化が始まったここ数百年の間に、一夫多妻制、あるいは何回かくりかえされる一夫多妻制への全体的な揺り戻しがおこってきた」のだそうだ。

 精子戦争は、人間のみならず、広く動物一般において繰り広げられている。
 男側には自分の精子を勝たせる戦略があるし、女側にも好きな男の精子を応援するメカニズムがある。

 その戦いにおいては、睾丸のサイズが重要だ。というのも、睾丸のサイズが戦士たる精子の生産量を左右するからだ。
 そして、精子戦争の盛んな動物種ほど、たとえば乱婚制のチンパンジーなど、大きな睾丸を具えている。本書いはく、「(平均的に)大きなペニスと睾丸を持つ集団には、(平均的に)小さなペニスと睾丸を持つ集団より精子戦争を行う男性の数が多いのだ。この説は人間の集団ではまだだが、動物の種の間では実証されている」
 そして睾丸とペニスのサイズは、「平均的に見ると、黒人は白人より大きく、白人はモンゴロイドより大きい」。

 ということは、アフリカの方が日本より精子戦争が盛んなわけだ。
 オレの乏しいアフリカ体験からしても、それは何かしら頷けるところがある。三十年ほど前、ナイジェリアのとある州都だったが、高級ホテルの前に女たちがたむろしているのだ。それも必ずしも娼婦というわけではなさそう。泊まり客の男たちは気軽にピックアップして中に入っていく。ホテルの前で婦人警官が交通整理をしていたが、それをピックアップした猛者もいた(日本人)。こうしたアフリカのオープンなセクシャリティについては、岡崎がん著『トランス・アフリカン・レターズ』が面白い。
 ヨーロッパやアメリカについては、まあ皆さんの方がよくご存知であろう。

 ここで思い出すのは、拙ブログでも二度ほど取り上げた某避妊具メーカーによる世界各国のセックス頻度と性生活満足度調査。世界各国と言っても、主にヨーロッパとアジアの国々なのだが、アジア諸国のセックス回数はヨーロッパに比べて明らかに少ない。半分ほどなのだ。特に日本は調査41カ国中、セックス回数が年45回で世界最低。最高のギリシア138回に比べると三分の一。また満足度も中国に次いで世界で二番目に低い。

 最近巷では「レス」が云々されるが、やはり日本人はあまりセックスをしないらしい。
 アフリカや欧米に比べ、精子戦争の少ない、一夫一妻制の戦略を取るケースが多いのだろう。
 ただしそれはあくまで一般的に言えばであって、中にはアフリカ的、欧米的な人もいるはずだ。そういう人々が自己の性的な遺伝的形質に添って行動すると、一夫一妻的な世間からひどいバッシングを浴びる。最近は特にそういう傾向が強いのではあるまいか。
業務提携
 トヨタとマツダが業務提携したそうだ。
 その理由のひとつがEVの共作らしい。
 どちらもその分野で出遅れていたしな。
 FCVの旗色悪いし、エンジンもそう長くあるまいし。
 昨今世界的にEVシフトの動きが急であるが、一EVユーザーとしてそれは自然の流れだと思う。やっぱ運転してて気持ちイイからな。
 地球環境のためのみならず、沿道住民の心身健康増進のためにも、EVシフトは早い方が良かろう。

 さて、オレも今朝、ちょっとした業務提携をした。
 じつは最近、便秘気味なのだ。
 とある薬の副作用だと思うが、運動不足も原因のひとつかもしれない。

 オレの運動の主たるものは、野良仕事だ。
 しかし、夏だから、暑いし、ヤブ蚊など有害な羽虫も出るしで、あまり野良に出なくなっている。
 アレルギー体質なもんで、虫刺されには弱いのだ。
 しかしながら、それで運動不足になるのもマズかろう。
 そこで今朝は一念発起、鍬を担いで畑に出る。秋野菜のための畑作りだ。

 でもやっぱ暑い。今日は陽も照っているし。
 しばらく耕作していると、どっと汗が噴き出す。
 そこで上半身ハダカになる。
 これはすこぶる気持ち良い。ビタミンDの補給にもなるしな。
 しかし肌が過敏なのにハダカ!?

 周囲にはトンボが遊弋(ゆうよく)している。
 ウスバキトンボだ。
 精霊(しょうりょう)トンボとも言って、お盆の時期に現れる。
 このトンボ、オレが畑仕事を始めると、周囲に寄ってくる。
 察するに、オレの活動によって、獲物となる小昆虫が飛び出してくるのであろう。
 そしてまた、オレが居れば、天敵の小鳥が寄って来ないからであろう。
 すなわち、オレの周囲は、餌の多い安全地帯なのだ。
 そしてオレからすると、ウスバキトンボが周囲に居れば、有害昆虫が恐れを成して出てこないから、有難い。
 なんてったってドラゴンフライだからな。
 お陰で今朝は、一時間半ほど半裸で過ごしたが、一箇所もやられずに済んだ。

 というわけで、プチ業務提携。
 畑にボーッと突っ立っていると、鼻先を悠々と通過していく。
 かなりの信頼関係。
 この業務提携の歴史は、人類百万年、あるいは大型哺乳類数千万年、もしくは恐竜時代数億年前に遡る!?
 
真夏に贈る瞑想&Singing Dancing セレブレーション
 あさってなんだけど、東京・聖蹟桜ヶ丘にて。
 瞑想と、歌&踊り、Osho説法など。
 オレも出演!! (気合・太鼓・ボーカルなど)

http://www.swanhouse.net/cele20170729.html
画僧の系譜 ― 不染鉄展
 めっちゃ好きかも。
 聞いたこともない名前の画家だが、現在、東京ステーションギャラリーで大規模な回顧展が開かれている。
 不染(ふせん)が苗字で、鉄が名前みたい。

 なぜ好きかというと、観る者を瞑想の境地に誘ってくれるからだ。
 「絵画修行とは心を磨くこと」とは不染の言葉。
 浄土宗の寺に生まれ育ち、自ら法名も持っていたそうだ。
 不染にとっては画業も仏道修行の一部であったのだろう。

 そういう人の絵は好きだ。
 いはゆる、画僧の部類に属する人々。
 たとえば、南宋の牧谿や玉澗、本朝の雪舟や雪村、ルネサンスイタリアのフラ・アンジェリコ…
 彼らの絵も見る者を瞑想に誘う。

 ただ、禅僧であった東洋の画僧の絵と、キリスト教徒の画僧の絵とでは、誘導される瞑想の質も違う。
 禅僧の絵はハラに深く引き入れるが、キリスト者の絵はハートに強く働きかける。
 これはベースとなっている禅(仏教)とキリスト教のアプローチの違いでもあろう。
 これは音楽にしても同じで、直後に「ゴウ芽里沙ショパンピアノリサイタル」を聴いたのだが、演奏されるショパンの曲はすべて心地よくハートに触れるものであった。

 仏教系である不染の絵は、中国の山水画を研究していることもあって、やはり深くハラに下っていく。
 彼の山水画、たとえば「萬山飛雪」を観ていると、これはまさに瞑想誘導装置だなと思う。
 縦長の画面いっぱいに岩山が描かれ、その上の方から滝が何段にも分かれて流れ下って、前景の水辺に至る。これはまさに人間のエネルギーが頭からハラへと滔々と流れ下る姿ではないか。観る者のエネルギーも自動的に自らのハラに下り、法悦へと至る。これが山水画の魅力であったか!

 ただ、不染の生まれ育った浄土宗は念仏系であり、日本仏教の中ではいちばんハートの要素の強いものであろう。
 それゆえか、彼の絵にも、アンジェリコに通じるようなほんわかした柔らかさがある。晩秋の田園風景にぽつぽつと赤く描き込まれた柿の実がひたぶるにかわいらしい。

 いいものを見せていただいた。本展を企画したギャラリーの館長や学芸員に感謝。
 (翻って、己が業がはたして修行となっているのか、いささか心許なく感じるのであった)
『心を操る寄生生物』 ― 腸か脳か
 著者はサイエンスライターのキャサリン・マコーリフ。タイトル通り、動物に寄生する微生物が心を操っているという話。
 昨年9月にご紹介した本『あなたの体は9割が細菌』と通じる内容だ。
 我々の腸内に存在する微生物が、人間の欲求や感情や認知、すなわち「心」に影響を与えているという話。

 一般的に、我々の「心」は脳に存在すると考えられている。
 では、それに影響を与える腸とはどういう存在なのか。

 本書には以下のような記述がある。曰く、
 細菌が動物に住みきつ始めたのは8億年ほど前で、当時はあまり脳は発達していなかった。腸内に細菌を最初に取り込んだ生物のひとつはミミズと考えられおり、その体は基本的に一本の長い消化管で、その周囲は消化を調整する神経繊維(いはゆる「第二の脳」)で支えられている。頭部にある脳は小さな細胞塊ふたつであり、腸からの命令に従うのみだ。その命令とは「食べろ!」という命令であり、脳はそのために体を調整する。それゆえ、脳とは腸の神経網の出先機関として進化したものかもしれない。つまり「第二の脳」のほうが上位、すなわち「第一」であったということ。

 以降はオレの考察 ―
 その「第一」であるべき腸神経系は、脳の神経系よりも、当然のことながら腸内細菌と密接に関係している。腸内細菌にとって腸は我が家なわけだから、住み心地が良いように手入れを怠らないことだろう。8億年も共生してきたのだ。だいたいにおいて腸と細菌の利益は一致するはずだ。すなわち腸のメリットは細菌のメリットであり、その際、細菌はドーパミンやセロトニンを分泌して腸神経系の報酬系に働きかける。
 ドーパミンが分泌されると「気持ちイイ」と感じるのだが、いったい誰が感じるのか。すなわちそれを感じる「心」はどこにあるのか。
 普通は脳だということになるだろう。
 しかしながら、ミミズはほとんどが消化管、すなわち腸であり、その周囲に神経繊維があって、その出先機関である脳は小さな細胞塊だ。だとしたら、距離的・規模的に言って、細菌由来のドーパミンで気持ち良く感じるのは、腸の神経系であろう。
 人間は脳が巨大化して、腸は「第二の脳」とされるが、そもそもの基本はミミズと同じではないのか。数的に言うと体の九割を占める細菌は依然として腸内に存在し、ドーパミンやセロトニンは腸内で細菌が作っているとすれば、やっぱり我々の「心」は腸にあるのだ。
 拙ブログを振り返ってみると、4年ほど前、藤田紘一郎『腸内革命』を読んだ際にも、同じような感想を述べている

 腸すなわち消化管というのは、食って出すだけのこと。
 一休道歌に「世の中は食うて糞して 寝て起きてさてその後は死ぬるばかりよ」というのがあるが、無心とはすなわち、複雑怪奇な脳を去って、本来の心である腸のレベルに戻るってことじゃあるまいか。

ぬかみそチーズ
 オレの唯一できる料理。
 ぬかみそづけ。
 これは料理ではないという意見もあるだろうが、まあ、料理だろう。
 毎日食っても飽きないという意味で、最強の料理のひとつだろう。

 昨年あたりか、この料理をいっそう美味にする手法を思いついた。
 上にチーズを載っけて食うのだ。
 これは超絶的にウマい!!
 酒のつまみに最高。

 と言いつつ、しばらく忘れてたんだけどな。
 インドにちょっと滞在して、帰ってきたりすると、忘れてしまう。
 先日思い出したので、忘れないように記しているというわけ。

 ま、オレのぬかみそづけだからウマいのかもな。
 素材が自家製野菜だろ、その採りたてを漬けるわけだから、ウマくて当然か。
 ともあれ、その上にチーズを載っけると絶品になるのである。
 大根とかカブとか、特に合う感じ。
末廣亭・怒濤のインド航路
 つれづれに末廣亭のHPをチェックしたところ、六月下席・夜のトリが小三治ではないか。
 小三治と言えば、毎秋、立川市民会館で独演会があるのだが、昨秋はチケットは取ったもののインド出張で行けず仕舞。

 これを逃す手はあるまい。しかも昼のトリは喬太郎。それ以外にも一之輔、さん喬、正蔵、歌之介、権太楼など多士済々。
 小三治が演るのは午後9時あたりだが、だいたい立ち見が出る。ゆっくり観るには早く行くに越したことはないのだが、さて何時に行くか。

 これだけ面子が揃うのだから、これはヤルほかあるまい。昼の開演(12時)からぶっ通しの9時間コースだ。
 前も一度やったことがある。あの昭和レトロの狭い空間で九時間…
 なぁにこの時期インドに飛ぶのと同じくらいの時間だ。狭さだってインド航空の機内とさして変わるまい。(飲食のサービスはないが)
 小三治は休演日もあるし、土日も避けて、昨金曜日に出かける。

 ところが…
 12時ちょい過ぎに末廣亭に入ると、あろうことか、一階椅子席はもちろん、左右の平土間も満席、二階席に通されることに。
 末廣亭にはずいぶん通っているが、二階席は初めて。一階の平土間すら座ったことがないのに。それも金曜の昼間だぜ。出演者も驚いてたよ、まっとうな人は働いている時間なのに…と。
 というわけで、オレと同じこと考えてる人は、(小三治出演日には)、11時半頃には出向いた方がいいかもな。その価値はあると思う。つまらん芸人も出るけどな、ま、それは辛抱。
 枯れた小三治も良かったが、脂の乗りきった喬太郎とか、キレの良い一之輔、相変わらずの歌之介や権太楼とか。また行きたくなる。病み上がりなんだけど。