ぱるばか日誌 2017
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『生き物の死にざま』稲垣栄洋
 動物の様々な死にざまを描く、ちょっと驚くべき本。
 たとえば、我々にもお馴染みのハサミムシ。その雌は苦労して孵した卵から生まれた我が子たちに自らの身体を生きながら食わせ、そして死んで行くのだという。痛いのか、快いのか? 人間の母親も自らの養分を授乳というカタチで我が子に食わせるが、それに似た感覚なのであろうか。
 多くの昆虫や魚類は、性交や産卵を終えると命を閉じるらしい。そうした生物には、老衰とか介護とかの問題がないわけで、うらやましい死に方かも。

 ところで、本書によると、生命の発生が38億年前。そして「死」が現れたのが10億年前。その間の28億年間は、生物に死はなかったのだという。というのも、その間、生命は単細胞生物の分裂というかたちで増えて行ったからだ。もちろん事故や捕食による死はあるのだが、老衰による自然死はない。だから、運が良ければ何億年も生きられるということになる。
 ただ、ここで生まれる素朴な疑問は、細胞分裂した場合、「私はどうなるか」ということ。早い話、今このオレが二つに分かれてそれぞれ個体になった場合、オレはどっちに行くの?という問題。これは単細胞生物に限らず、たとえば、下等なミミズの場合、二つに切ったら、二つの個体が生まれるわけだ。さてオレはどっちに? こういう疑問は、そもそも「私」という方便によるものだろう。
 死についてもそうだ。死について心配する生物は人間だけだろう。それでこんな本も書かれる。人間以外の生物は、ただ坦々と生き、そして消えていくのみだ。人間にしてもだ、平生は死のことなど考えもしないだろう。たまたま、他人や他動物の死を見聞きした時、それを我が身に引き寄せ、恐怖したり、ときには羨望したりするのだろう。
 生き物には、そもそも私も死も無いのだ。
ダマシオ『進化の意外な順序』
 アントニオ・ダマシオの邦訳最新作。オレの知る限り第五作目だ。弊ブログでは過去四作を以下の通り紹介している。
 (一冊目『デカルトの誤り』原著1994年。二冊目『無意識の脳・自己意識の脳』原著1999年。三冊目『感じる脳』原著2003年。四冊目『自己が心にやってくる』原著2010年)
 この五冊目『進化の意外な順序』は原著が昨2018年で、かなり最近。それゆえ随所で今日的なトピックにも触れられて楽しめる。
 しかしながら難解なのは相変わらずで、オレもここ一月半ほど本書と格闘したかも。
 本書は全体的には、前掲四書の所論を人間社会に敷衍する試みと言うことができよう。
 三部に分かれ、第一部が生命の誕生から神経系の発生まで、第二部が心(mind)から意識まで、第三部が社会すなわち文化を扱う。

 第一部と第二部は、基本的に前掲四書の所論に重なる。
 すなわち、何かの具合で生命が誕生し、その生命は「どうにか生き抜き、発展する」という強烈なサバイバルの意図を宿している。それが変異と淘汰によって進化し、神経系を持つことによって心を持ち、更には意識を持ち、それを発展させることによって現在見る人類が誕生する。
 この最初の生命(すなわち最も原始的な細菌)から人間に至るまで通底する要素が、サバイバル意志と、それを可能にする内的な状態であるホメオスタシスだ。
 このホメオスタシスの向上が「快」であり、悪化が「不快」だ。この原初の快不快が原動力となり、細菌から人間までの進化が起こる。
 ただ、細菌が快不快を「感じ」ていたわけではない。ただ突き動かされていたというだけだ。感じるためには、神経系が必要だ。
 神経系の始原は、先カンブリア代に出現した刺胞動物などに具わった「神経網」だ。
 この神経網は、人間の腸管神経系によく似ている。それゆえ著者は、腸管神経系は巷に言われる「第二の脳」ではなく、実は「第一の脳」なのではないかと考える。(現生の刺胞動物であるヒドラは、消化器系が支配的な生物で、泳ぐ腸みたいなものだ)

 このあたりはオレにとって大いに我が意を得たり、なんである。
 ダマシオは身体を重視する「思想家」であったが、腸に言及したのは今回が初めてではないか。
 瞑想によってマインドの支配を弱めると、決まって感じられるのが、腸のあたりの快感である。
 著者によると、生命維持の肝は呼吸と栄養摂取であるが、空気中から酸素を摂取する営為に比べ、栄養摂取はずっと複雑なプロセスであるゆえ、腸には脳に匹敵する神経細胞が配置されている。
 先進国に住む現在の我々の生活水準では、栄養摂取に関しては、過剰の方が深刻であるくらいに恵まれている。それゆえ、腸管神経系はほとんどの場合、OK信号、すなわち「快」を発信しているはずだ。無心の状態になれば、そこにあるのは第一の脳たる腸の満足感であり、それこそが瞑想の何たるかであろう。
 ともあれ、ダマシオによると、消化管と腸管神経系は感情や気分の形成に重要な役割を果たすということだ。

 ホメオスタシスの状態は「静かな感情」という形で、常に背景的に感じられる。内蔵の状態をモニターしたものだ。こうした背景的感情についてダマシオは「瞑想の実践者が到達を目指すたぐいの純粋な存在の境地」と語る。これはオレがダマシオの一冊目『デカルトの誤り』を読んだ時にまさしく感じたことだ。著者が瞑想について語るのもこれが初めてではないかと思うが、こうしたダマシオの指摘は瞑想者にとってひとつの参考となるものであろう。
ダグラス・ホフスタッター『私は不思議の輪』
 「私」あるいは「意識」とは何かを扱う。
 結論から言うと、私とはひとつの方便であり、実在するものではない。
 実在すると仮定したほうが便利だというだけの話。
 すなわち、還元論的な一元論だ。

 どのようなプロセスで私が現れたかというと、まず知覚の存在だ。
 知覚とは、途方も無く雑多な入力の中から何物かを抽象的なシンボルへと分別すること。たとえば、視覚的に赤くて丸っこい入力があったら、「花」というシンボルの中に入れ込み、そうして現実が解釈され、それに対する反応が起こるわけだ。
 その知覚が自分自身に向けられると、そこに私が出現する。自分自身に向けるわけだから、そこにループがあり、すなわち「不思議の輪」なわけ。

 だから、私はいないのだ。
 これはブッダもOshoも言っている。

 還元論者はみな、私はいないと言う。
 物質のどこを見ても意識なり自我はないからだ。
 著者によれば、物質以外の何ものかを措定する考え、すなわち二元論には、多くの問題がある。
 物質のみの一元論は、スッキリだ。だから私はいない。

 実際、自分自身を顧みても、普段、私なるものはいない。(オレの場合)
 ときたま現れるだけだ。
 私はいないのだから、私にまつわるいろんな悩みも幻に過ぎないわけで、これは気楽なことだ。

 本書は2007年に出版された本だから、神経科学の最近の展開から見ると、ちょっと時代モンかも。
 それが昨2018年に邦訳出版されるわけだから、科学啓蒙書であるとともに、文学的な価値があるということだろう。
 たしかにいろいろ楽しい部分がある。
 オレなんか、つい、シュヴァイツァーのバッハオルガン作品CDを買ってしまった。アフリカの聖者と呼ばれた人のモノラル演奏だ。80年も前の。
国立文楽劇場
 大阪には文楽の国立劇場がある。
 今、開館35周年記念公演をやっている。
 出し物は仮名手本忠臣蔵の大序から四段目まで。
 こちらもネットで簡単に座席指定できる。二日前に購入したが、わりあい良い席が取れた。
 月曜・昼の部であったが、ほぼ満席。
 人気があるのだなぁ。ポピュラーな演目ゆえか。

 人形劇の国立劇場って、世界でここくらいじゃあるまいか。
 インドネシアあたりにはあるかもしれないが、先進国ではちょっと例がないかも。
 それくらいユニークな存在だと思う。

 オペラと同じで、総合芸術だ。
 文学、音楽、美術、演劇。
 音楽は、ボーカルと三味線、各一。

 人形の繊細な動きなど、さすが文楽だ。
 しかし、なぜ人形劇なのか?
 主要な登場人物、いや人形は、三人の人形遣いで動かす。
 だったら一人の役者でこなした方が経済的ではないのか。

 人形が役者になったら、すなわち歌舞伎だ。
 実際、文楽と歌舞伎では演目が重なっている。

 歌舞伎との最大の違いは、ボーカル、すなわち義太夫節であろう。
 あれがなかなか良い。
 歌舞伎だったら役者が自分で語るが、文楽では専門の語り手がいる。
 何であれ専門家は強い。ベルカントも良いが、義太夫みたいなボーカル芸もなかなか無い。
 義太夫節に合わせて役者が演じても良いんだろうが、義太夫は人形浄瑠璃とともに発展してきたので、やはり人形の方がしっくり行くのだろう。それでより簡素で淡色系の芸能になっている。
 そのあたりに文楽の魅力があるんだろう。

 ちなみに、三週間ほど前にミラノのスカラ座に行ったが、文楽のチケット代はその5分の1以下。
 地理的にも近いし、日本人だから原語で楽しめるし、コスパ良いかも。
ラ・スカラ
 仕事でミラノに来た。
 ミラノと言えば、大聖堂と「最後の晩餐」とスカラ座。
 最初の二つは、四十年くらい前だったかな、ミラノに来た時に見物した。
 スカラ座だけは見逃した。カレーラスが出ていたが、当日に行って買えるものではない。(カネもなかったし)
 それ以来、スカラ座のチケットは取れないものだと思っていた。
 そうではないようだな。今では、ネットでけっこう簡単に取れる。

 渡航の一週間ほど前、スカラ座のサイトで予約する。
 出し物はプッチーニの「マノン・レスコー」。
 聴いたことのない作品だ。プッチーニの出世作なんだと。
 DVDを購入して予習する。テ・カナワとドミンゴの版。テレビのDVDプレーヤーが故障していたんで、パソコンで鑑賞する。なんとなくかったるいかも…。プッチーニだったら、ラ・ボエームとかトスカとかトゥーランドットとか、そういうのが良かった…。ま、「マイナー作」だから座席が取れたということもあるのだろうが。

 ミラノでは取引先の私宅に滞在する。閑静な住宅街でスカラ座まで歩いて行けるという屈強の立地だ。せっかくのスカラ座だから、Shaktiも誘って行くことにする。
 夜8時開演。日本時間だと草木も眠る午前3時。まだ時差ボケの残る身なので、しっかり昼寝をしておく。
 演出が現代に引き寄せられていた。DVDでは馬車に乗って現れたマノンが、今回は汽車でやったきた。
 主役もDVDほど有名ではなく、SiriとCavalletti (聞いたことない)。辛うじて指揮者のシャイーは名前だけ知っていた。

 だがしかし、やっぱ、生は良い。プッチーニの出世作というのも、わかる気がする。特に前半が良い。
 ヒロインのSiriもなかなか良かった。体型はマノンじゃなかったが。(最初の登場シーンは少女の口パク吹き替えであった…設定が18歳だしな)
 オレが取引先の家に住んでたら、貯金して年に数回は行くだろうな。家の女主人もかつてボックスのシーズンチケットを2期ほど持っていたという。(でもあまりオペラには興味がないそうだ)。歩いて十五分だからな。夢のラ・スカラ。
 拙宅など、十五分歩いてやっと猿の生息圏から抜けるくらいだ。
瞑想の医学的効用
 昨日の昼下がり、HクリニックのN院長が弊スタジオ来店。
 Hクリニックとは、日本で唯一、アーユルヴェーダを採り入れている医院だという。
 アーユルヴェーダといえば、我々もインドではよくお世話になっている。
 アーユルヴェーダって西洋医学的に意味あるのですかと聞くと、慢性の病に効果があるとN院長。

 ところで、N院長は糖質制限の権威で、何冊もの著書がある。
 糖質制限かぁ⋯
 ちょうどその時、私は焼き芋と豆大福をおやつに食おうと思っていたところだった。
 囲炉裏の端で、そのN院長とティータイム。
 我が左手にはトコロカフェの珈琲。右手には焼き芋。N院長はもちろん珈琲のみ。
 聞くところによると、院長、自宅ではもう17年、炊飯器なしの生活をしているという。
 何を食べるのですかと聞くと、肉とか、魚とか、卵とか、豆腐。
 う〜ん、飯やパンや麺類なしに肉や魚を食うのか⋯
 酒はいかがと聞くと、蒸留酒なら無糖だそうだ。ビールだったら麦芽とホップだけのやつ。
 つまり、刺身に焼酎だったらOKなわけか。それなら良いかも。
 野菜はどうですか、身体に良いとよく言われますが、と聞くと、それは根拠がないと。
 う〜ん、野菜を食わなくてもいいのか!?
 更に院長いはく、気をつけるべきは果物である。果糖はマーカーをぐっと上げるんだと。

 言うまでもなく、我が好物であった焼き芋も豆大福もほとんど味がしなかった。
 糖質なしの人生など、いかに味気ないものか⋯
 とりわけ今、イベント最中で、諸方から様々な美味が降り注いでいるんだが、そのほとんどが、ケーキとか、クッキーとか、メレンゲとか、チョコとか、アイスとかいった、猪突猛進奇々怪々の糖質食品なのだ。

 その前途に暗澹たる思いを抱いていたところ、N院長、最後に一言⋯
 でもいちばん大事なのは瞑想です、瞑想によって副交感神経優位に持っていくことがポイント
 とのたまふ。

 それだ!
 瞑想的に生きれば、多少の糖質は良いんだ!

 ま、これはオレの希望的解釈なんだけどな。
 そうして生きていくほかあるまい。
 
「死」とは何か
 最近読んだ本のタイトル。
 著者はシェーリー・ケーガンというアメリカの哲学者。「イェール大学で23年連続の人気講義」の書籍化だそうだ。
 著者は物理還元論者。すなわち精神作用は脳の物理現象にほかならないという立場。それで、肉体の死はすなわち全ての終わり、ということを前提にしている。(そのあたりの詳細は邦訳ではカットされている)。だから、魂の不滅とか、永遠の生、とかは存在しない。
 しかしながら、永遠の生など、良くても退屈にほかならないし、良くなかったら永遠の苦悩なわけだから、死は救いなんだそうだ。

 ま、そのあたりは良いとして、ちと思い当たったことは…
 死とは、「永眠」などと言われるわけだ。
 本書でもときどき死と眠りは同様に扱われたりする。

 思えば不思議なことだが、動物はみな眠る。
 なぜ眠るのか? これは、身体を休めるためとかいろいろ言われる。しかし、眠っている時間は不活動なのだから、もったいないではないか。限られた人生なんだから、ずっと覚醒していれば良いのに。
 しかし、これは、逆なのではないかと思う。問題は、なぜ眠るのかではなく、なぜ覚醒するかだろう。
 世界には眠りしかないのだ。ところが、たまたま、あなたや私が覚醒する。
 生まれる前も、死んだ後も、眠りしかない。その間に、たまたま、あなたや私が覚醒するのだ。
 あなたや私は毎晩、眠りに入る。また覚醒するという保証は何もないのだが、たまたま、今日も覚醒している。
 覚醒しなくなったら、それがすなわち死ということなのだろう。
 毎晩の入眠、あるいは午睡の入眠、それはけっこうな至福タイムではないだろうか。
 死んだことはないのでわからないが、入死もけっこうな至福かも。
『私はすでに死んでいる』 ― 私とは何か?
 著者のアニル・アナンサスワーミーはインド系の科学ライター。
 様々な神経症を通じて、「自己」とは何かに迫る。
 8つからなる章ごとに扱われる神経症は、コタール症候群とか身体完全同一性障害など珍しいものや、認知症や統合失調症、自閉症といった身近なも。身近なものについては、その神経学的なメカニズムが解説されており、参考になる。また珍しいものについては、単純に興味深い。
 さて、問題の、「私」ないし「自己」であるが、現在の神経学では、デカルト的に二元論はまったく否定されている。身体を離れた霊的存在は「無い」のである。本書もその線で書かれる。分析された8つの症例から見ても、霊的な自己は存在しそうもない。
 自己は脳の中に現れるのであるが、本書ではことに、身体の役割を重視している。それゆえダマシオなどの所論が随所に言及される。なかなか示唆に富むところである。

 スピ系にとって興味深いのは、体外離脱などを扱った第7章、恍惚てんかんを扱った第8章あたりだろう。
 神秘体験や至福感も神経的な現象に還元できる、というわけだ。
 そう言っちゃあ身も蓋もないんだが、まあ、そういうこともあるだろう。
 ともあれ、ブッダもアドヴァイタ哲学も無我を語る。本書の結びも「病は自己そのものだったのだ」という言葉だ。
 要は、人間が進化の末に獲得した究極の自己「ナラティブ・セルフ」すなわち多様な物語をまとった自己(ダマシオ流に言うと「自伝的自己」)と、上手に折り合いをつけること。どうやって折り合いをつけるかというと、瞑想修行なのだろう。ただそのあたりは本書の範囲外だ。しかしそこが肝腎なところだろう。どうやったら簡単に無我の境地に行き着けるか、神経学的に究明してほしい。(それから、邦訳タイトルとカバー写真がセンス悪い。カバー捨てた)
釜山博物館
 今、釜山に居る。
 ここは世界でもじつにユニークな場所だ。
 というのも、我々にとって世界で一番近い外国だからだ。
 それゆえ、昔から日本との関わりも深い。
 地理的な近さから日本人の来訪も多く、街には至る所に日本語の表記が見られ、日本語を解する人も多い。

 そんな釜山の歴史をじっくり勉強できるのが、市立の釜山博物館。
 ここはかなり面白い。
 先史時代から近現代に至るまで、広汎な展示が行われている。

 中でもやはり日本との関係が目を引く。
 考古学資料では、日本から渡来した縄文土器や、黒曜石の遺物などが登場する。新石器時代の昔から日本列島と朝鮮半島との間には交易があったのだ。
 そして、日本関係の展示がクローズアップされるのが、文禄・慶長の役、すなわち秀吉の朝鮮侵攻からだ。こちらでは壬辰倭乱と呼ばれる。釜山がその上陸地となり、大きな被害を受けたらしい。
 その後、江戸時代になると、外交使節である朝鮮通信使が釜山を基地として日本へとたびたび派遣される。使節団員の4分の1ほどが釜山の人間だったという。
 また釜山の一画に、ちょうど長崎の出島のような「倭館」が設けられ、日本人が居留し、日朝間の貿易に携わっている。
 朝鮮通信使は江戸鎖国期の文化交流として日本でも大きな歓迎を受けたようで、そのあたりの展示はほのぼのとしている。
 そして、時代は明治へと移り、日韓併合、植民地支配へと進むにつれ、雰囲気も重苦しくなる。
 展示は更に、日本の敗戦による独立(韓国では光復と呼ばれる)、さらには朝鮮戦争、戦後の復興と成長へと展開していく。
 朝鮮半島の歴史とともに、韓国第二の都市・釜山の成り立ちについて、ところどころに日本語の解説も交えつつ、いろいろ工夫して展示されている。

 ま、歴史も歴史だからな、国家としての団結を図るため日本を敵役にしているという面もあるが、それはお互い今後の課題であろう。
 我々が中学や高校で習った「任那」の記述がまったく無いのも特徴的。釜山もおそらくその「領内」にあったはずだが。その代わり、「伽耶」という国があったということになっている。

 歴史的な美術工芸もいろいろ展示されているが、やはり出色は半島の磁器であろう。
 高麗白磁や青磁、李朝の粉青沙器や白磁。これらは日本でも珍重されたものだ。このあたり、日本と朝鮮の趣味に共通するものがあるように思う。
 先進地・中国の磁器は、オレに言わしむれば、12〜3世紀・南宋で美の頂点に達する。その後、時代が下るにつれ技術的な精緻を極めて行くんだが、だんだん面白くなくなる。
 その点、朝鮮半島は、18〜9世紀になっても、ただの白磁を焼いている。このあたりがすばらしい。

 というわけで、なかなか良い博物館である。
『脳の意識・機械の意識』 ― 意識は脳内バーチャルCG!?
 脳化学者・渡辺正峰の著作。
 意識を巡る本は近頃いろいろあるが、日本人の著作だけあって(翻訳を経てないので)、いちばん最近の展開をうかがうことができる。発行は昨年11月。
 新書サイズの本ではあるが、意識とは何かという「ハードプロブレム」に関して、要領よくまとまっている。意識について興味ある人には、現在のところ一番おススメの本ではないか。
 意識についての論議は、拙ブログでも、ダマシオや、トノーニコッホドゥアンヌなどいろいろご紹介しているが、本書のがいちばん面白いかもな。
 曰く、「意識とは脳が脳内につくりだすバーチャルな仮想現実」なんだそうな。この仮想現実は、感覚器官などの入力によって絶えずアップデートされる。睡眠中など感官からの入力がないと、その仮想現実は夢となって現れてくる。
 これはフィンランドの哲学者レヴォンスオの考えを元にしているらしい。
 ま、あくまでも仮説で、証明されているわけではないが、こう考えるといろいろ辻褄が合うんだそうだ。

 意識とは何か、それは人類最大の謎であり、その解明への試みは始まったばかりだ。
 そもそも解明されるものかどうかわからないが、今まで存在してきた神経科学側からの定義の中では、いちばんピンと来る感じ。

 いずれにせよ、神経科学的に言うと、意識とはニューロンの活動にほかならないので、脳が働かなくなったら意識も消失するわけだ。
 本書タイトルの後半は「機械の意識」であるが、著者は半ば本気で、自分の意識を機械すなわちコンピュータに移し換えられると考えているようだ。
 幾多の技術的困難はあるが、意識が脳から機械に移植された時、「私」はどうなるか。それは乗り移った時のお楽しみ。