ぱるばか日誌 2017
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瞑想の医学的効用
 昨日の昼下がり、HクリニックのN院長が弊スタジオ来店。
 Hクリニックとは、日本で唯一、アーユルヴェーダを採り入れている医院だという。
 アーユルヴェーダといえば、我々もインドではよくお世話になっている。
 アーユルヴェーダって西洋医学的に意味あるのですかと聞くと、慢性の病に効果があるとN院長。

 ところで、N院長は糖質制限の権威で、何冊もの著書がある。
 糖質制限かぁ⋯
 ちょうどその時、私は焼き芋と豆大福をおやつに食おうと思っていたところだった。
 囲炉裏の端で、そのN院長とティータイム。
 我が左手にはトコロカフェの珈琲。右手には焼き芋。N院長はもちろん珈琲のみ。
 聞くところによると、院長、自宅ではもう17年、炊飯器なしの生活をしているという。
 何を食べるのですかと聞くと、肉とか、魚とか、卵とか、豆腐。
 う〜ん、飯やパンや麺類なしに肉や魚を食うのか⋯
 酒はいかがと聞くと、蒸留酒なら無糖だそうだ。ビールだったら麦芽とホップだけのやつ。
 つまり、刺身に焼酎だったらOKなわけか。それなら良いかも。
 野菜はどうですか、身体に良いとよく言われますが、と聞くと、それは根拠がないと。
 う〜ん、野菜を食わなくてもいいのか!?
 更に院長いはく、気をつけるべきは果物である。果糖はマーカーをぐっと上げるんだと。

 言うまでもなく、我が好物であった焼き芋も豆大福もほとんど味がしなかった。
 糖質なしの人生など、いかに味気ないものか⋯
 とりわけ今、イベント最中で、諸方から様々な美味が降り注いでいるんだが、そのほとんどが、ケーキとか、クッキーとか、メレンゲとか、チョコとか、アイスとかいった、猪突猛進奇々怪々の糖質食品なのだ。

 その前途に暗澹たる思いを抱いていたところ、N院長、最後に一言⋯
 でもいちばん大事なのは瞑想です、瞑想によって副交感神経優位に持っていくことがポイント
 とのたまふ。

 それだ!
 瞑想的に生きれば、多少の糖質は良いんだ!

 ま、これはオレの希望的解釈なんだけどな。
 そうして生きていくほかあるまい。
 
「死」とは何か
 最近読んだ本のタイトル。
 著者はシェーリー・ケーガンというアメリカの哲学者。「イェール大学で23年連続の人気講義」の書籍化だそうだ。
 著者は物理還元論者。すなわち精神作用は脳の物理現象にほかならないという立場。それで、肉体の死はすなわち全ての終わり、ということを前提にしている。(そのあたりの詳細は邦訳ではカットされている)。だから、魂の不滅とか、永遠の生、とかは存在しない。
 しかしながら、永遠の生など、良くても退屈にほかならないし、良くなかったら永遠の苦悩なわけだから、死は救いなんだそうだ。

 ま、そのあたりは良いとして、ちと思い当たったことは…
 死とは、「永眠」などと言われるわけだ。
 本書でもときどき死と眠りは同様に扱われたりする。

 思えば不思議なことだが、動物はみな眠る。
 なぜ眠るのか? これは、身体を休めるためとかいろいろ言われる。しかし、眠っている時間は不活動なのだから、もったいないではないか。限られた人生なんだから、ずっと覚醒していれば良いのに。
 しかし、これは、逆なのではないかと思う。問題は、なぜ眠るのかではなく、なぜ覚醒するかだろう。
 世界には眠りしかないのだ。ところが、たまたま、あなたや私が覚醒する。
 生まれる前も、死んだ後も、眠りしかない。その間に、たまたま、あなたや私が覚醒するのだ。
 あなたや私は毎晩、眠りに入る。また覚醒するという保証は何もないのだが、たまたま、今日も覚醒している。
 覚醒しなくなったら、それがすなわち死ということなのだろう。
 毎晩の入眠、あるいは午睡の入眠、それはけっこうな至福タイムではないだろうか。
 死んだことはないのでわからないが、入死もけっこうな至福かも。
『私はすでに死んでいる』 ― 私とは何か?
 著者のアニル・アナンサスワーミーはインド系の科学ライター。
 様々な神経症を通じて、「自己」とは何かに迫る。
 8つからなる章ごとに扱われる神経症は、コタール症候群とか身体完全同一性障害など珍しいものや、認知症や統合失調症、自閉症といった身近なも。身近なものについては、その神経学的なメカニズムが解説されており、参考になる。また珍しいものについては、単純に興味深い。
 さて、問題の、「私」ないし「自己」であるが、現在の神経学では、デカルト的に二元論はまったく否定されている。身体を離れた霊的存在は「無い」のである。本書もその線で書かれる。分析された8つの症例から見ても、霊的な自己は存在しそうもない。
 自己は脳の中に現れるのであるが、本書ではことに、身体の役割を重視している。それゆえダマシオなどの所論が随所に言及される。なかなか示唆に富むところである。

 スピ系にとって興味深いのは、体外離脱などを扱った第7章、恍惚てんかんを扱った第8章あたりだろう。
 神秘体験や至福感も神経的な現象に還元できる、というわけだ。
 そう言っちゃあ身も蓋もないんだが、まあ、そういうこともあるだろう。
 ともあれ、ブッダもアドヴァイタ哲学も無我を語る。本書の結びも「病は自己そのものだったのだ」という言葉だ。
 要は、人間が進化の末に獲得した究極の自己「ナラティブ・セルフ」すなわち多様な物語をまとった自己(ダマシオ流に言うと「自伝的自己」)と、上手に折り合いをつけること。どうやって折り合いをつけるかというと、瞑想修行なのだろう。ただそのあたりは本書の範囲外だ。しかしそこが肝腎なところだろう。どうやったら簡単に無我の境地に行き着けるか、神経学的に究明してほしい。(それから、邦訳タイトルとカバー写真がセンス悪い。カバー捨てた)
『脳の意識・機械の意識』 ― 意識は脳内バーチャルCG!?
 脳化学者・渡辺正峰の著作。
 意識を巡る本は近頃いろいろあるが、日本人の著作だけあって(翻訳を経てないので)、いちばん最近の展開をうかがうことができる。発行は昨年11月。
 新書サイズの本ではあるが、意識とは何かという「ハードプロブレム」に関して、要領よくまとまっている。意識について興味ある人には、現在のところ一番おススメの本ではないか。
 意識についての論議は、拙ブログでも、ダマシオや、トノーニコッホドゥアンヌなどいろいろご紹介しているが、本書のがいちばん面白いかもな。
 曰く、「意識とは脳が脳内につくりだすバーチャルな仮想現実」なんだそうな。この仮想現実は、感覚器官などの入力によって絶えずアップデートされる。睡眠中など感官からの入力がないと、その仮想現実は夢となって現れてくる。
 これはフィンランドの哲学者レヴォンスオの考えを元にしているらしい。
 ま、あくまでも仮説で、証明されているわけではないが、こう考えるといろいろ辻褄が合うんだそうだ。

 意識とは何か、それは人類最大の謎であり、その解明への試みは始まったばかりだ。
 そもそも解明されるものかどうかわからないが、今まで存在してきた神経科学側からの定義の中では、いちばんピンと来る感じ。

 いずれにせよ、神経科学的に言うと、意識とはニューロンの活動にほかならないので、脳が働かなくなったら意識も消失するわけだ。
 本書タイトルの後半は「機械の意識」であるが、著者は半ば本気で、自分の意識を機械すなわちコンピュータに移し換えられると考えているようだ。
 幾多の技術的困難はあるが、意識が脳から機械に移植された時、「私」はどうなるか。それは乗り移った時のお楽しみ。
画僧の系譜 ― 不染鉄展
 めっちゃ好きかも。
 聞いたこともない名前の画家だが、現在、東京ステーションギャラリーで大規模な回顧展が開かれている。
 不染(ふせん)が苗字で、鉄が名前みたい。

 なぜ好きかというと、観る者を瞑想の境地に誘ってくれるからだ。
 「絵画修行とは心を磨くこと」とは不染の言葉。
 浄土宗の寺に生まれ育ち、自ら法名も持っていたそうだ。
 不染にとっては画業も仏道修行の一部であったのだろう。

 そういう人の絵は好きだ。
 いはゆる、画僧の部類に属する人々。
 たとえば、南宋の牧谿や玉澗、本朝の雪舟や雪村、ルネサンスイタリアのフラ・アンジェリコ…
 彼らの絵も見る者を瞑想に誘う。

 ただ、禅僧であった東洋の画僧の絵と、キリスト教徒の画僧の絵とでは、誘導される瞑想の質も違う。
 禅僧の絵はハラに深く引き入れるが、キリスト者の絵はハートに強く働きかける。
 これはベースとなっている禅(仏教)とキリスト教のアプローチの違いでもあろう。
 これは音楽にしても同じで、直後に「ゴウ芽里沙ショパンピアノリサイタル」を聴いたのだが、演奏されるショパンの曲はすべて心地よくハートに触れるものであった。

 仏教系である不染の絵は、中国の山水画を研究していることもあって、やはり深くハラに下っていく。
 彼の山水画、たとえば「萬山飛雪」を観ていると、これはまさに瞑想誘導装置だなと思う。
 縦長の画面いっぱいに岩山が描かれ、その上の方から滝が何段にも分かれて流れ下って、前景の水辺に至る。これはまさに人間のエネルギーが頭からハラへと滔々と流れ下る姿ではないか。観る者のエネルギーも自動的に自らのハラに下り、法悦へと至る。これが山水画の魅力であったか!

 ただ、不染の生まれ育った浄土宗は念仏系であり、日本仏教の中ではいちばんハートの要素の強いものであろう。
 それゆえか、彼の絵にも、アンジェリコに通じるようなほんわかした柔らかさがある。晩秋の田園風景にぽつぽつと赤く描き込まれた柿の実がひたぶるにかわいらしい。

 いいものを見せていただいた。本展を企画したギャラリーの館長や学芸員に感謝。
 (翻って、己が業がはたして修行となっているのか、いささか心許なく感じるのであった)
『心を操る寄生生物』 ― 腸か脳か
 著者はサイエンスライターのキャサリン・マコーリフ。タイトル通り、動物に寄生する微生物が心を操っているという話。
 昨年9月にご紹介した本『あなたの体は9割が細菌』と通じる内容だ。
 我々の腸内に存在する微生物が、人間の欲求や感情や認知、すなわち「心」に影響を与えているという話。

 一般的に、我々の「心」は脳に存在すると考えられている。
 では、それに影響を与える腸とはどういう存在なのか。

 本書には以下のような記述がある。曰く、
 細菌が動物に住みきつ始めたのは8億年ほど前で、当時はあまり脳は発達していなかった。腸内に細菌を最初に取り込んだ生物のひとつはミミズと考えられおり、その体は基本的に一本の長い消化管で、その周囲は消化を調整する神経繊維(いはゆる「第二の脳」)で支えられている。頭部にある脳は小さな細胞塊ふたつであり、腸からの命令に従うのみだ。その命令とは「食べろ!」という命令であり、脳はそのために体を調整する。それゆえ、脳とは腸の神経網の出先機関として進化したものかもしれない。つまり「第二の脳」のほうが上位、すなわち「第一」であったということ。

 以降はオレの考察 ―
 その「第一」であるべき腸神経系は、脳の神経系よりも、当然のことながら腸内細菌と密接に関係している。腸内細菌にとって腸は我が家なわけだから、住み心地が良いように手入れを怠らないことだろう。8億年も共生してきたのだ。だいたいにおいて腸と細菌の利益は一致するはずだ。すなわち腸のメリットは細菌のメリットであり、その際、細菌はドーパミンやセロトニンを分泌して腸神経系の報酬系に働きかける。
 ドーパミンが分泌されると「気持ちイイ」と感じるのだが、いったい誰が感じるのか。すなわちそれを感じる「心」はどこにあるのか。
 普通は脳だということになるだろう。
 しかしながら、ミミズはほとんどが消化管、すなわち腸であり、その周囲に神経繊維があって、その出先機関である脳は小さな細胞塊だ。だとしたら、距離的・規模的に言って、細菌由来のドーパミンで気持ち良く感じるのは、腸の神経系であろう。
 人間は脳が巨大化して、腸は「第二の脳」とされるが、そもそもの基本はミミズと同じではないのか。数的に言うと体の九割を占める細菌は依然として腸内に存在し、ドーパミンやセロトニンは腸内で細菌が作っているとすれば、やっぱり我々の「心」は腸にあるのだ。
 拙ブログを振り返ってみると、4年ほど前、藤田紘一郎『腸内革命』を読んだ際にも、同じような感想を述べている

 腸すなわち消化管というのは、食って出すだけのこと。
 一休道歌に「世の中は食うて糞して 寝て起きてさてその後は死ぬるばかりよ」というのがあるが、無心とはすなわち、複雑怪奇な脳を去って、本来の心である腸のレベルに戻るってことじゃあるまいか。

究極のイクメン
 今日の朝日新聞科学欄にカマキリの話が出ていた。
 交尾時にオスはメスに食われてしまうという話。
 記事いはく、とある研究によると、オスを食ったメスの卵や卵巣には、オス由来のアミノ酸が38.8%含まれていたそうだ。オスを食わなかった場合は21.1%。またオスを食ったメスの最初の産卵数は平均88.4個、食わなかった場合は同37.5個。というわけで、オスを食った方が子孫を残しやすい。

 同記事でも明かだが、ひとつポイントは、オスは必ず食われるわけではない。丸山宗利著『昆虫はすごい』によると、「うまく雌と交尾して、さらに別の雌と交尾する要領のいい雄も少なくない。逆に、雌に近づく方法に失敗し、交尾を成し遂げる前に雌に食べられてしまう」場合もあるという。なんか人間に似たところがあるかもな。

 ただ、人間の場合、さすがに男が文字通り女に食われることはない。そんなの痛くてたまらん。
 カマキリの場合、同書によると「雄は上半身を食べられながらも、下半身だけはしっかり生きており、きちんと交尾を全うする」んだそうだ。

 これはドーパミンが関与しているに違いない。食われながらも交尾の快感に身を委ねているわけだ。リンデン著『快感回路』によると、セックスはドーパミン回路を活性化する。
 察するところ、雄カマキリのドーパミン回路は、たとえ自分が頭から雌に食われたところで、ビクともしないのだろう。
 ということは、ドーパミン回路は頭とは関係なく、下半身、すなわち腸ないし腹に中心を置いているということになる。
 人間の場合はそういう進化は遂げなかった。育児期間が長いからな。性交時に雌の栄養になってしまったら、その後の長い育児期間、雌を助けることができない。
『あなたの体は9割が細菌』 腸内細菌と瞑想
 アランナ・コリン『あなたの体は9割が細菌』。最近邦訳出版された本だ。今朝の朝日新聞にも広告が出ていた。
 9割というのは、人間の細胞数に対する体内細菌数の割合。人体内の微生物の数は100兆個であり、それは人間の細胞1個につき微生物9個の割合なんだそうだ。
 その微生物(細菌)の総重量は肝臓に匹敵する1.5kgであり、それはヒトゲノムの延長として働くひとつの臓器のようなもので、人間はそれ無しに生きることはできない、という話。

 ひとつ面白かったのは、体内に棲むそれら微生物は宿主の感情や行動や意志決定さえ操っているということ。
 前回の記事「扁桃体と瞑想」の中で、「ワクワクドキドキを感じる時、この扁桃体が報酬系に指令を出し、ドーパミンを放出させる」という話をご紹介した。ドーパミンというのは瞑想に関与していると思われる神経伝達物質だ。
 本書によると、このドーパミンは、腸内細菌によっても放出されるという。
 また、トリプトファンの破壊を防いで幸福感を増進し、免疫系の興奮を鎮めて不安を和らげる働きもする。トリプトファンはセロトニンに直接変換されるアミノ酸で、「幸福感を得るのに欠かせない物質」だ。

 そうした細菌の住処は、少々が小腸、大部分が大腸である。
 ここで思い出すのは、臍下丹田。
 これは臍下三寸と言われるが、これを本書に従って解釈すると、おそらく細菌数の一番多いであろう直腸あたりを中心として腸全体を象徴するということになるんじゃあるまいか。
 丹田とは「丹=霊薬」の「田=工場」であり、これは腸内で霊薬すなわちドーパミンやセロトニンが産生されている、という風にも考えられる。その産生には微生物も大いに関わっているわけだ。
 先日書いたように、「ワクワクドキドキ」すなわち知的好奇心が生ずる時には、臍下丹田が活性化して、気持ち良い。これも腸内細菌が関与しているかもしれない。というのも、知的好奇心が生じるということは、宿主に余裕と向上心があるということで、それは間借り人の微生物にもメリットがある。それでドーパミンを放出させて、宿主に報奨するというわけだ。ターボチャージャーみたいなもんだな。
 静かに坐るということが果たして微生物の利益になるのか定かではないが、ま、このターボチャージャーを上手に利用するってもんだろう。行住坐臥すべてにおいてだ。

 また著者によると、こうした細菌群は感染もする。それゆえ「ビジネススクールに行くと起業家指向の性格になる微生物を拾うかもしれない」とのこと。
 これは仏教の三宝を想起させる。仏法僧だ。僧というのは坊さんじゃなくて、僧伽(サンガ)すなわち求道者の集まり。僧伽が尊いのも、志を同じくして高めあうのみならず、その集まりの中には求道菌が充満しているのであろう。師からの伝法も同じ。禅宗では不立文字教外別伝と言うが、言葉や教えじゃなくて細菌群が伝わるのかもな。

 著者は、人体に住まう微生物のことを調べるうちに、「自分自身を独立した存在と考えるのをやめ、マイクロバイオータの容器だと考えるようになった」そうだ。マイクロバイオータというのは体内微生物の遺伝子総体のこと。
 そもそも人間の細胞内にはミトコンドリアのような他生物起源の器官があるし、また人間の遺伝子の中にはかつて取り込まれたウィルスの痕跡もある。
 そうしたすべてを含めて、私とは何か!?
『生涯健康脳』 扁桃体と瞑想
 瀧靖之『生涯健康脳』を読む。 どうやって一生、脳を健康に保つか、換言すると、認知症を免れるか、という本だ。
 その中で、ひとつ、面白い記述があった。
 「知的好奇心」すなわちワクワクドキドキが、脳の萎縮つまり認知症を防ぐのに役立つというわけだ。
 そしてそれに深くかかわっているのが、脳内の扁桃体。
 ワクワクドキドキを感じる時、この扁桃体が報酬系に指令を出し、ドーパミンを放出させ、そのドーパミンが記憶力を高め、心地良いという気持ちや、達成感、ヤル気を生み出す。そして前頭葉など認知機能を担う脳を活性化するんだそうだ。
 
 ためしに、自分の中で、このワクワクドキドキを再現してみる。
 すると、臍下丹田と前頭葉が活性化し、そして、心地良い。
 外的な対象物無しにこの状態が現れると、これはひとつの瞑想状態であろう。
 本書の記述を加味して言えば、臍下丹田からエネルギーが供給され、扁桃体を通じてドーパミンが放出されるということか。

 三年ほど前、書籍『快感回路』についての拙ブログで書いたが、ドーパミンと瞑想は関連していると思われる。
 ここに扁桃体が介在するようだが、著者によると、扁桃体の指令によって放出される神経伝達物質はドーパミンのほか百種類にも及び、「まさに扁桃体が、感情、つまり人の心をつくり出している」と言えるのだそうだ。

 しかし、まだナゾは解けない。
 誰がワクワクドキドキを感じ、誰が心地良さを感じるのか。オレはもしかしたら扁桃体なのか。瞑想は扁桃体に働きかけるのか、あるいはもっと直に働くのか。
 ともあれ、瞑想で前頭葉が活性化され心地良さを感じたら、アナタの認知症もそのぶん遅くやってくる、と言えるんじゃあるまいか。
ドゥアンヌ『意識と脳』
 フランスの認知神経学者スタニスラス・ドゥアンヌの著作。昨年9月に邦訳刊行。原著は2014年。
 「意識」について、様々な実験を通じて考究する。その実験は著者自身によるものもあるし、他の研究者によるものもあるが、なかなかに興味深い。
 まず問題となる「意識」の定義であるが、著者は、自由意志や自己意識などの難題はひとまずおいて、「コンシャス・アクセス」を俎上に置く。それはすなわち「意識に載せる」あるいは「意識される」という現象だ。

 その「コンシャス・アクセス」すなわち「意識に載せる」以前に、人間すなわち脳は、無意識的に様々な事象を処理している。その守備範囲は広く深い。意識によって処理されることは限られている。
 なぜ意識が存在するのかというと、それが生存に有利だからだ。意識することにより、情報が処理&保持され、脳の広汎な部位に伝達され、様々な処理が施され、実施される。無意識的な処理より時間はかかるが、異次元の飛躍が可能となる。
 この「コンシャス・アクセス」は脳を対象とした計測機器によって測定可能だ。

 意識のスペースは限られており、通常、意識対象はひとつに限られる。
 その意識対象の選択は、注意によって行われる。何に注意を向けるかは無意識的な作用だ ― 「私たちの脳には、周囲の世界をつねにモニターし、それによって得られる情報に、注意を導き思考を形成する価値を付与する、一連の巧妙な無意識の装置が備わっている」(p.113)のだそうだ。
 このあたりは、ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」を思わせるものがある。ダマシオ説によると身体が行為を選択するのであるが、それに徴して言えば、身体が何かに注意を向けさせて意識を起動するということか。
 ダマシオに関連してもうひとつ言えば、ダマシオによると自己があって初めて、意識は生ずるとされる。なんとなれば、自己によって指向性が現れ、方向性すなわち「目的」が生じるからだ。ドゥアンヌにおいて、注意が向けられる判断基準は「価値」と表現されるが、その価値が何に由来するのか語られることはない。本書では自己についても語られることはないが、それは今後の課題ということか。

 著者はかなりハードな還元論者の印象だ。自由意志にしろ主観性(クオリア)にしろ、問題なくニューロンの活動に還元できるという。フランス合理主義の伝統か。
 自己がどういうメカニズムで生じるのか聞いてみたいものだ。