ぱるばか日誌 2017
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画僧の系譜 ― 不染鉄展
 めっちゃ好きかも。
 聞いたこともない名前の画家だが、現在、東京ステーションギャラリーで大規模な回顧展が開かれている。
 不染(ふせん)が苗字で、鉄が名前みたい。

 なぜ好きかというと、観る者を瞑想の境地に誘ってくれるからだ。
 「絵画修行とは心を磨くこと」とは不染の言葉。
 浄土宗の寺に生まれ育ち、自ら法名も持っていたそうだ。
 不染にとっては画業も仏道修行の一部であったのだろう。

 そういう人の絵は好きだ。
 いはゆる、画僧の部類に属する人々。
 たとえば、南宋の牧谿や玉澗、本朝の雪舟や雪村、ルネサンスイタリアのフラ・アンジェリコ…
 彼らの絵も見る者を瞑想に誘う。

 ただ、禅僧であった東洋の画僧の絵と、キリスト教徒の画僧の絵とでは、誘導される瞑想の質も違う。
 禅僧の絵はハラに深く引き入れるが、キリスト者の絵はハートに強く働きかける。
 これはベースとなっている禅(仏教)とキリスト教のアプローチの違いでもあろう。
 これは音楽にしても同じで、直後に「ゴウ芽里沙ショパンピアノリサイタル」を聴いたのだが、演奏されるショパンの曲はすべて心地よくハートに触れるものであった。

 仏教系である不染の絵は、中国の山水画を研究していることもあって、やはり深くハラに下っていく。
 彼の山水画、たとえば「萬山飛雪」を観ていると、これはまさに瞑想誘導装置だなと思う。
 縦長の画面いっぱいに岩山が描かれ、その上の方から滝が何段にも分かれて流れ下って、前景の水辺に至る。これはまさに人間のエネルギーが頭からハラへと滔々と流れ下る姿ではないか。観る者のエネルギーも自動的に自らのハラに下り、法悦へと至る。これが山水画の魅力であったか!

 ただ、不染の生まれ育った浄土宗は念仏系であり、日本仏教の中ではいちばんハートの要素の強いものであろう。
 それゆえか、彼の絵にも、アンジェリコに通じるようなほんわかした柔らかさがある。晩秋の田園風景にぽつぽつと赤く描き込まれた柿の実がひたぶるにかわいらしい。

 いいものを見せていただいた。本展を企画したギャラリーの館長や学芸員に感謝。
 (翻って、己が業がはたして修行となっているのか、いささか心許なく感じるのであった)
『心を操る寄生生物』 ― 腸か脳か
 著者はサイエンスライターのキャサリン・マコーリフ。タイトル通り、動物に寄生する微生物が心を操っているという話。
 昨年9月にご紹介した本『あなたの体は9割が細菌』と通じる内容だ。
 我々の腸内に存在する微生物が、人間の欲求や感情や認知、すなわち「心」に影響を与えているという話。

 一般的に、我々の「心」は脳に存在すると考えられている。
 では、それに影響を与える腸とはどういう存在なのか。

 本書には以下のような記述がある。曰く、
 細菌が動物に住みきつ始めたのは8億年ほど前で、当時はあまり脳は発達していなかった。腸内に細菌を最初に取り込んだ生物のひとつはミミズと考えられおり、その体は基本的に一本の長い消化管で、その周囲は消化を調整する神経繊維(いはゆる「第二の脳」)で支えられている。頭部にある脳は小さな細胞塊ふたつであり、腸からの命令に従うのみだ。その命令とは「食べろ!」という命令であり、脳はそのために体を調整する。それゆえ、脳とは腸の神経網の出先機関として進化したものかもしれない。つまり「第二の脳」のほうが上位、すなわち「第一」であったということ。

 以降はオレの考察 ―
 その「第一」であるべき腸神経系は、脳の神経系よりも、当然のことながら腸内細菌と密接に関係している。腸内細菌にとって腸は我が家なわけだから、住み心地が良いように手入れを怠らないことだろう。8億年も共生してきたのだ。だいたいにおいて腸と細菌の利益は一致するはずだ。すなわち腸のメリットは細菌のメリットであり、その際、細菌はドーパミンやセロトニンを分泌して腸神経系の報酬系に働きかける。
 ドーパミンが分泌されると「気持ちイイ」と感じるのだが、いったい誰が感じるのか。すなわちそれを感じる「心」はどこにあるのか。
 普通は脳だということになるだろう。
 しかしながら、ミミズはほとんどが消化管、すなわち腸であり、その周囲に神経繊維があって、その出先機関である脳は小さな細胞塊だ。だとしたら、距離的・規模的に言って、細菌由来のドーパミンで気持ち良く感じるのは、腸の神経系であろう。
 人間は脳が巨大化して、腸は「第二の脳」とされるが、そもそもの基本はミミズと同じではないのか。数的に言うと体の九割を占める細菌は依然として腸内に存在し、ドーパミンやセロトニンは腸内で細菌が作っているとすれば、やっぱり我々の「心」は腸にあるのだ。
 拙ブログを振り返ってみると、4年ほど前、藤田紘一郎『腸内革命』を読んだ際にも、同じような感想を述べている

 腸すなわち消化管というのは、食って出すだけのこと。
 一休道歌に「世の中は食うて糞して 寝て起きてさてその後は死ぬるばかりよ」というのがあるが、無心とはすなわち、複雑怪奇な脳を去って、本来の心である腸のレベルに戻るってことじゃあるまいか。

究極のイクメン
 今日の朝日新聞科学欄にカマキリの話が出ていた。
 交尾時にオスはメスに食われてしまうという話。
 記事いはく、とある研究によると、オスを食ったメスの卵や卵巣には、オス由来のアミノ酸が38.8%含まれていたそうだ。オスを食わなかった場合は21.1%。またオスを食ったメスの最初の産卵数は平均88.4個、食わなかった場合は同37.5個。というわけで、オスを食った方が子孫を残しやすい。

 同記事でも明かだが、ひとつポイントは、オスは必ず食われるわけではない。丸山宗利著『昆虫はすごい』によると、「うまく雌と交尾して、さらに別の雌と交尾する要領のいい雄も少なくない。逆に、雌に近づく方法に失敗し、交尾を成し遂げる前に雌に食べられてしまう」場合もあるという。なんか人間に似たところがあるかもな。

 ただ、人間の場合、さすがに男が文字通り女に食われることはない。そんなの痛くてたまらん。
 カマキリの場合、同書によると「雄は上半身を食べられながらも、下半身だけはしっかり生きており、きちんと交尾を全うする」んだそうだ。

 これはドーパミンが関与しているに違いない。食われながらも交尾の快感に身を委ねているわけだ。リンデン著『快感回路』によると、セックスはドーパミン回路を活性化する。
 察するところ、雄カマキリのドーパミン回路は、たとえ自分が頭から雌に食われたところで、ビクともしないのだろう。
 ということは、ドーパミン回路は頭とは関係なく、下半身、すなわち腸ないし腹に中心を置いているということになる。
 人間の場合はそういう進化は遂げなかった。育児期間が長いからな。性交時に雌の栄養になってしまったら、その後の長い育児期間、雌を助けることができない。
『あなたの体は9割が細菌』 腸内細菌と瞑想
 アランナ・コリン『あなたの体は9割が細菌』。最近邦訳出版された本だ。今朝の朝日新聞にも広告が出ていた。
 9割というのは、人間の細胞数に対する体内細菌数の割合。人体内の微生物の数は100兆個であり、それは人間の細胞1個につき微生物9個の割合なんだそうだ。
 その微生物(細菌)の総重量は肝臓に匹敵する1.5kgであり、それはヒトゲノムの延長として働くひとつの臓器のようなもので、人間はそれ無しに生きることはできない、という話。

 ひとつ面白かったのは、体内に棲むそれら微生物は宿主の感情や行動や意志決定さえ操っているということ。
 前回の記事「扁桃体と瞑想」の中で、「ワクワクドキドキを感じる時、この扁桃体が報酬系に指令を出し、ドーパミンを放出させる」という話をご紹介した。ドーパミンというのは瞑想に関与していると思われる神経伝達物質だ。
 本書によると、このドーパミンは、腸内細菌によっても放出されるという。
 また、トリプトファンの破壊を防いで幸福感を増進し、免疫系の興奮を鎮めて不安を和らげる働きもする。トリプトファンはセロトニンに直接変換されるアミノ酸で、「幸福感を得るのに欠かせない物質」だ。

 そうした細菌の住処は、少々が小腸、大部分が大腸である。
 ここで思い出すのは、臍下丹田。
 これは臍下三寸と言われるが、これを本書に従って解釈すると、おそらく細菌数の一番多いであろう直腸あたりを中心として腸全体を象徴するということになるんじゃあるまいか。
 丹田とは「丹=霊薬」の「田=工場」であり、これは腸内で霊薬すなわちドーパミンやセロトニンが産生されている、という風にも考えられる。その産生には微生物も大いに関わっているわけだ。
 先日書いたように、「ワクワクドキドキ」すなわち知的好奇心が生ずる時には、臍下丹田が活性化して、気持ち良い。これも腸内細菌が関与しているかもしれない。というのも、知的好奇心が生じるということは、宿主に余裕と向上心があるということで、それは間借り人の微生物にもメリットがある。それでドーパミンを放出させて、宿主に報奨するというわけだ。ターボチャージャーみたいなもんだな。
 静かに坐るということが果たして微生物の利益になるのか定かではないが、ま、このターボチャージャーを上手に利用するってもんだろう。行住坐臥すべてにおいてだ。

 また著者によると、こうした細菌群は感染もする。それゆえ「ビジネススクールに行くと起業家指向の性格になる微生物を拾うかもしれない」とのこと。
 これは仏教の三宝を想起させる。仏法僧だ。僧というのは坊さんじゃなくて、僧伽(サンガ)すなわち求道者の集まり。僧伽が尊いのも、志を同じくして高めあうのみならず、その集まりの中には求道菌が充満しているのであろう。師からの伝法も同じ。禅宗では不立文字教外別伝と言うが、言葉や教えじゃなくて細菌群が伝わるのかもな。

 著者は、人体に住まう微生物のことを調べるうちに、「自分自身を独立した存在と考えるのをやめ、マイクロバイオータの容器だと考えるようになった」そうだ。マイクロバイオータというのは体内微生物の遺伝子総体のこと。
 そもそも人間の細胞内にはミトコンドリアのような他生物起源の器官があるし、また人間の遺伝子の中にはかつて取り込まれたウィルスの痕跡もある。
 そうしたすべてを含めて、私とは何か!?
『生涯健康脳』 扁桃体と瞑想
 瀧靖之『生涯健康脳』を読む。 どうやって一生、脳を健康に保つか、換言すると、認知症を免れるか、という本だ。
 その中で、ひとつ、面白い記述があった。
 「知的好奇心」すなわちワクワクドキドキが、脳の萎縮つまり認知症を防ぐのに役立つというわけだ。
 そしてそれに深くかかわっているのが、脳内の扁桃体。
 ワクワクドキドキを感じる時、この扁桃体が報酬系に指令を出し、ドーパミンを放出させ、そのドーパミンが記憶力を高め、心地良いという気持ちや、達成感、ヤル気を生み出す。そして前頭葉など認知機能を担う脳を活性化するんだそうだ。
 
 ためしに、自分の中で、このワクワクドキドキを再現してみる。
 すると、臍下丹田と前頭葉が活性化し、そして、心地良い。
 外的な対象物無しにこの状態が現れると、これはひとつの瞑想状態であろう。
 本書の記述を加味して言えば、臍下丹田からエネルギーが供給され、扁桃体を通じてドーパミンが放出されるということか。

 三年ほど前、書籍『快感回路』についての拙ブログで書いたが、ドーパミンと瞑想は関連していると思われる。
 ここに扁桃体が介在するようだが、著者によると、扁桃体の指令によって放出される神経伝達物質はドーパミンのほか百種類にも及び、「まさに扁桃体が、感情、つまり人の心をつくり出している」と言えるのだそうだ。

 しかし、まだナゾは解けない。
 誰がワクワクドキドキを感じ、誰が心地良さを感じるのか。オレはもしかしたら扁桃体なのか。瞑想は扁桃体に働きかけるのか、あるいはもっと直に働くのか。
 ともあれ、瞑想で前頭葉が活性化され心地良さを感じたら、アナタの認知症もそのぶん遅くやってくる、と言えるんじゃあるまいか。
ドゥアンヌ『意識と脳』
 フランスの認知神経学者スタニスラス・ドゥアンヌの著作。昨年9月に邦訳刊行。原著は2014年。
 「意識」について、様々な実験を通じて考究する。その実験は著者自身によるものもあるし、他の研究者によるものもあるが、なかなかに興味深い。
 まず問題となる「意識」の定義であるが、著者は、自由意志や自己意識などの難題はひとまずおいて、「コンシャス・アクセス」を俎上に置く。それはすなわち「意識に載せる」あるいは「意識される」という現象だ。

 その「コンシャス・アクセス」すなわち「意識に載せる」以前に、人間すなわち脳は、無意識的に様々な事象を処理している。その守備範囲は広く深い。意識によって処理されることは限られている。
 なぜ意識が存在するのかというと、それが生存に有利だからだ。意識することにより、情報が処理&保持され、脳の広汎な部位に伝達され、様々な処理が施され、実施される。無意識的な処理より時間はかかるが、異次元の飛躍が可能となる。
 この「コンシャス・アクセス」は脳を対象とした計測機器によって測定可能だ。

 意識のスペースは限られており、通常、意識対象はひとつに限られる。
 その意識対象の選択は、注意によって行われる。何に注意を向けるかは無意識的な作用だ ― 「私たちの脳には、周囲の世界をつねにモニターし、それによって得られる情報に、注意を導き思考を形成する価値を付与する、一連の巧妙な無意識の装置が備わっている」(p.113)のだそうだ。
 このあたりは、ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」を思わせるものがある。ダマシオ説によると身体が行為を選択するのであるが、それに徴して言えば、身体が何かに注意を向けさせて意識を起動するということか。
 ダマシオに関連してもうひとつ言えば、ダマシオによると自己があって初めて、意識は生ずるとされる。なんとなれば、自己によって指向性が現れ、方向性すなわち「目的」が生じるからだ。ドゥアンヌにおいて、注意が向けられる判断基準は「価値」と表現されるが、その価値が何に由来するのか語られることはない。本書では自己についても語られることはないが、それは今後の課題ということか。

 著者はかなりハードな還元論者の印象だ。自由意志にしろ主観性(クオリア)にしろ、問題なくニューロンの活動に還元できるという。フランス合理主義の伝統か。
 自己がどういうメカニズムで生じるのか聞いてみたいものだ。
ダマシオ『自己が心にやってくる』
 邦訳されているアントニオ・ダマシオの最新作。原著は2010年。今のところ全部で四作だ。
 (一冊目『デカルトの誤り』原著1994年。二冊目『無意識の脳・自己意識の脳』原著1999年。三冊目『感じる脳』原著2003年)

 この四冊目、邦題は『自己が心にやってくる』。原著タイトルはSELF COMES TO MIND。
 邦訳副題は『意識ある脳の構築』。原著副題はConstructing the Conscious Brain。

 だいたいにおいて本書の内容は、二冊目『無意識の脳・自己意識の脳』と重複する部分が多い。
 ひとつ新しいかなと思えるのは、タイトルに表される通りだ。すなわち、ダマシオによると、「意識が現れるのは、心に自己がやってくることによる」、ということ。

 ダマシオによれば、「心」Mindというのは、脳による「身体ならびに外的対象」の、イメージング(表象)だ。
 これは人間のみならず、動物の多くに見られるであろう現象だ。しかしそれはまだ意識ではない。
 意識なるものは、その心に、「自己」が加わって初めて現れる。
 
 では自己とは何か。
 そのメカニズムは、本書ならびに第二書『無意識の脳・自己意識の脳』で述べられている。すなわち、「原自己」「中核自己」「自伝的自己」だ。
 ひらたく言うと、自己は、脳内イメージに、指向性をもたらすものだ。
 指向性というのは、目的に従って、物事を構成すること。優劣をつけるということだ。脳について言えば、生存に資するため、雑多な脳内イメージに優先順位をつけて構成する。自己がその焦点となり、イメージが再構成されるということだろう。そうして意識が生じる。
 それを説明する例として、眠りからの覚醒が挙げられる。眠りから覚めると、脳内には何らかのイメージが生じるが、まだ、たとえば「自分はどこにいるのか」とか判然としないことがある。これはまだ指向性がハッキリしていないからであろう。だから、完璧に意識があるとは言えない。

 著者によると、細胞ないし単細胞生物には、「できる限り生き延びようとする不断の決意」のようなものがあるという。そして人間の「生きる意志」というのは、そうした細胞の原始的な意志の集合体だという。「命ほど大事なものはない」と言われるが、その源は、それぞれの細胞に仕組まれているわけだ。だから誰しも死にたくはないということ。
 著者は所論の援用に、進化的な視点を多用する。それに従って言えば、大昔のあるとき、「できる限り生き延びよう」と決意した単細胞生物が生まれ、それが増殖し、適者生存によって磨きをかけられ、現在の我々が生まれた、ということになるだろう。この決意から人間意識や人間社会の生成発展の道筋は、著者の所論に従えば首尾一貫しているように見える。
 この決意を持った単細胞生物の出現が偶然であったなら、我々の存在も偶然の産物ということになる。
 さて、この決意は単なる偶然なのか、それとも…。

 瞑想について関係ありそうな点が二つ。
 ひとつは「あたかも身体ループ」。生命の根幹は、苦と快、あるいは忌避と愛好と言えるであろう。脳が苦を感じるのは、身体が忌避すべきもの直面した時だ。ところが、進化の過程で、身体が直面せずとも、脳がそれをシミュレートできるようになった。すなわち、あたかも身体が何かに直面したかのごとく、脳が自分で苦も快も作り出せるということだ。それゆえ、無為に坐っていても、あたかも美食や美女を得たかのごとくの快感を得ることができるということ。これが著者の提唱した「あたかも身体ループ」だ。なんか瞑想に似てない!?
 もうひとつは、前にも『無意識の脳・自己意識の脳』のところで書いたが、大脳皮質の発達によって人間に花開いた「自伝的自己」。それによって人間は地上の王者となったのだが、反面、この自己は先取りが得意で、とかく取り越し苦労をしてしまう。今現在まったく満ち足りているにもかかわらずだ。「空の鳥を見よ、野の花を見よ」とイエスも語る。そうした自伝的自己、すなわち心の計らいをしばらく休ませ、満ち足りた今にくつろぐ。これも瞑想の目指すところであろう。

 ところで、本書を熟読しようとするなら、原書の入手も必須であろう。というのも、翻訳があまり良くないからだ。誤訳・不適訳が散見され、もともと難解な本が、輪を掛けて難解になっている。幸い、英文原書はAmazonから簡単に(そして訳書より安く)ダウンロードできる。原書をiPhoneに入れて文鎮代わりに使いつつ参照しながら読むというのが、本訳書との正しいつきあい方であろう。(訳者あとがきはよくできているが)
ラーマクリシュナの寺
 今はコルカタと呼ばれるインド東部の大都市カルカッタ。
 もし当地へ行って、時間があったら、先ず訪ねるべきは、ダクシネシュワルのカーリー寺院であろう。
 かつてラーマクリシュナが僧として住した寺だ。
 市心から北方15kmほどの河畔に鎮座している。

 ラーマクリシュナは近世覚者の中でも特にOshoのお気に入りのようだ。
 説法の中にたびたび登場する。
 拙訳Osho本の中にも、この寺は二度ほど言及されている。(「ダクシネシュワール」で検索すると出てくる)

 19世紀創建の比較的新しい寺で、おそらくはコンクリート製だろう。
 神さびた趣はないんだが、そんなことは関係あるまい。
 彼にとっては、「母」カーリーはどこにでも坐(いま)すのだ。
 今もカーリーの加護を求める善男善女でごった返している。
 人群れに混じって寺を訪ねると、「母」に捧げたそのハートが伝わってくる。
ダマシオ『感じる脳』
 現在四冊刊行されているダマシオ一般向け著書の三冊目。
 一冊目は『デカルトの誤り』(原著1994年)で、人間の意志決定における情動や感情の重要性を説く。
 二冊目は『無意識の脳・自己意識の脳』(原著1999年)で、意識や自己の起源を探る。
 そしてこの三冊目は2003年の作で、原題は『Looking for Spinoza』。「スピノザを求めて」だ。

 スピノザと言えば、17世紀オランダのユダヤ系哲学者。
 近代西洋哲学者の中で際だっていたのは、その生き様だ。大学哲学教授の職を提示されても断り、レンズ磨きを業として一生を終わる。我が母校の哲学科某教授に言わせると「ありえねー」とのこと。
 スピノザの主著『エチカ』やその生涯に触れながら、ダマシオは筆を進める。

 本書の前半は、一冊目『デカルトの誤り』の延長で、生命における情動(emotion)や感情(feeling)の意味を語る。この情動と感情の区別はダマシオ特有のものだが、平たく言えば、情動は身体のものであり、それが心に反映されたものが感情だ。この「心」というのは便宜的な言葉で、デカルト的な霊肉二元論のごときものではない。スピノザ的な「様相二元論」ないし「性質二元論」に近い。これはすなわち、心身という二つのものは、ひとつの実体の現れだという考えだ。
 有機体は、まずは身体から始まる。それゆえ身体にまつわる情動が先で、それから感情が現れる。なぜ感情が現れたかというと、有機体が進化により複雑化したからだ。内側に感情を持つ方が生存に有利だったというわけ。
 感情を持つためには、心、すなわち意識や自己が必要だ。ここはダマシオの二冊目に係わってくる。脳の進化により最終的に大脳皮質などが出現するようになると、それらの能力を最大限に発揮するためには、感情が必要になってくる。
 身体的な情動は脳内にマッピング(反映)され、そこから人は内側に感情を持つわけだが、そのあたりの仕組みはまだ解明されていないようだ。

 さて、身体から始まる様相二元論においては、身体が終われば心も終わる。すなわち人間には死が存在する。永遠の命など無いということだ。
 スピノザもそのことはよく承知していて、エチカの中で「自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない」(第4部・定理67)と述べている。「自由の人」とは「理性の指図のみに従って生活する人」だという。この「理性」とは、単なる頭ではなく、もっと深い「霊性」に類するものであろう。つまり、賢者には死の恐怖がないということだ。
 オレも四十年近く前に本書を紐解いたことがあるが、このあたりが一番印象に残っていた部分だ。スピノザのありえねー生き方を見ていると、彼自身、ホントにそうした「理性」を身につけていたのかもしれない。

 脳神経科学者としてダマシオは、当然のことながら、心ないし魂を神経生物学に還元する。それゆえ死とともに人間は終焉を迎えるわけで、そこに人間の苦悩がある。(この苦悩は人間が脳を発達させ、未来を予見し、感情移入ができるようになったからこそ出現したものだ)。そしてその苦悩は、スピノザくらいの「変人」でないと甘受できない。ただ、神経生物学の進展によって、凡人でもその苦悩を和らげられると考える。
 そのために必要なのは、まず、スピノザ的な「理性」ないし「霊性」を開発することだ。その「霊性」とは、まず第一に、有機体の「調和」すなわち「有機体が最大可能な完全性をもって機能しているという感覚」だ。そして、そこには他人に対する情愛あふれた姿勢も結びついている。オレ的に言わせると、健全な身体+ハートの機能、ということになるなろう。第二に、そこから生ずる喜びは、健全さを更に助長する。第三に、霊性を増進させる機会を作る。たとえば、科学的発見について熟慮する(これは科学的マインドを持つ人向け!?)とか、優れた芸術を経験する(著者は例としてバッハ、モーツァルト、シューベルト、マーラーの音楽を挙げる)とか。
 更に、科学や神経生物学の発展も、人間の苦悩(個人的であれ社会的であれ)を軽減するのに貢献するであろう。

 ということで、ダマシオは本書で、スピノザと関連しつつ、脳神経科学における自己の所論を、人間の幸福追求の方途へと向ける。
 最後の霊性増進の機会については、宗教の役割についても言及されるが、スピノザと同じく、組織宗教には批判的だ。瞑想もその方途となるであろうが、本書では触れられていない。
『意識はいつ生まれるのか』
マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニ著
今年5月邦訳出版。原著は2013年にイタリアで出版。著者名でも推測できるとおり、イタリア人がイタリア語で書いた本だ。
トノーニの意識理論は、昨年邦訳出版されたクリストフ・コッホ『意識をめぐる冒険』や昨年放映のNHK番組『臨死体験』の中でも大きく採り上げられている。(どちらも当ブログで言及)

いつものことながら、「意識」を語る難しさがある。
未だに満足な定義が無い。これからも無いかも。
そこで著者は無難なところから始める。非常に広汎な否定的定義だ。すなわち、意識とは…
「睡眠に落ち、かつ夢を見ることがない場合に消えるもの」。
ひらたく言うと、「夢を見ていない熟睡時に存在していないもの」だ。
付け加えれば、「麻酔下」あるいは「事故などによる昏睡状態・植物状態」にも存在しない。
裏返して言えば、意識とは、「夢のない熟睡時」や「麻酔下」や「昏睡&植物状態」以外の時に存在するもの、ということになる。
意識については様々な定義が存在するようだが、とりあえず上記のように定義すれば、ほとんど全部が収まるのであろう。しかし、広汎すぎてほとんど定義になっていないかも。

本書は、そうした「意識」がいつ生まれるか、という邦訳題名そのものの本だ。
核心となるのは、情報統合理論。
すなわち、おびただしい情報を統合できるシステムに意識は存在するということだ。
そして、そうしたシステムの頂点に位置するのが人間の脳、その中でも、大脳の視床-皮質系だ。
この視床-皮質系に意識が宿る。

「おびただしい情報」というのは、ひとつの情報の裏に無限の情報が含意されているということ。
たとえば、今オレの部屋の窓から隣家の洗濯物の赤シャツが見えるが、その「赤シャツ」というひとつの情報の裏には、青じゃない、白じゃない、ツートンじゃない、パンツじゃない、石じゃない、オレのじゃない…等々、無限の「じゃない」情報が含まれている。そしてそれらを統合して「赤シャツ」というひとつの情報になるというわけ。そういう芸当ができるのは、人体においては、肝臓でもなく、心臓でもなく、視神経でも、小脳でもなく、大脳の視床-皮質系しかないということだ。

そんなふうに言われても、「ああそうですか、意識は大脳にあるんですね。それで?」という感じ。
広漠としていて、それから先になかなか進めない。
これは意識の定義が広汎すぎるからだろう。
たとえば、月ロケットを打ち上げようとして、「どの方向に打ち上げたら良いですか?」と質問したら、「地面以外の方向です」と言われるようなものだ。確かにその通りだが、それだと打ち上げるのに困るだろう。
ただ、基礎としては良いかもしれない。上記のコッホもこの情報統合理論の上に意識についての自説を展開している。

ただ、オレはいつも思うのだが、たとえば、「赤シャツ」という意識内容ないしは情報は、それ単独では存在し得ないのではないか。
ハイデガーやサルトルの「投企」ではないが、人の何かの企てがあって初めて、赤シャツが意味を持つようになる、あるいは存在を始める。それ以前には存在しないのではないか。

企てがなくなった時、意識はどうなるのか。
choiceless awreness 「無選択の気づき」という言葉があるが、これは情報統合理論ではどうなるのか。