ぱるばか日誌 2017
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『意識はいつ生まれるのか』
マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニ著
今年5月邦訳出版。原著は2013年にイタリアで出版。著者名でも推測できるとおり、イタリア人がイタリア語で書いた本だ。
トノーニの意識理論は、昨年邦訳出版されたクリストフ・コッホ『意識をめぐる冒険』や昨年放映のNHK番組『臨死体験』の中でも大きく採り上げられている。(どちらも当ブログで言及)

いつものことながら、「意識」を語る難しさがある。
未だに満足な定義が無い。これからも無いかも。
そこで著者は無難なところから始める。非常に広汎な否定的定義だ。すなわち、意識とは…
「睡眠に落ち、かつ夢を見ることがない場合に消えるもの」。
ひらたく言うと、「夢を見ていない熟睡時に存在していないもの」だ。
付け加えれば、「麻酔下」あるいは「事故などによる昏睡状態・植物状態」にも存在しない。
裏返して言えば、意識とは、「夢のない熟睡時」や「麻酔下」や「昏睡&植物状態」以外の時に存在するもの、ということになる。
意識については様々な定義が存在するようだが、とりあえず上記のように定義すれば、ほとんど全部が収まるのであろう。しかし、広汎すぎてほとんど定義になっていないかも。

本書は、そうした「意識」がいつ生まれるか、という邦訳題名そのものの本だ。
核心となるのは、情報統合理論。
すなわち、おびただしい情報を統合できるシステムに意識は存在するということだ。
そして、そうしたシステムの頂点に位置するのが人間の脳、その中でも、大脳の視床-皮質系だ。
この視床-皮質系に意識が宿る。

「おびただしい情報」というのは、ひとつの情報の裏に無限の情報が含意されているということ。
たとえば、今オレの部屋の窓から隣家の洗濯物の赤シャツが見えるが、その「赤シャツ」というひとつの情報の裏には、青じゃない、白じゃない、ツートンじゃない、パンツじゃない、石じゃない、オレのじゃない…等々、無限の「じゃない」情報が含まれている。そしてそれらを統合して「赤シャツ」というひとつの情報になるというわけ。そういう芸当ができるのは、人体においては、肝臓でもなく、心臓でもなく、視神経でも、小脳でもなく、大脳の視床-皮質系しかないということだ。

そんなふうに言われても、「ああそうですか、意識は大脳にあるんですね。それで?」という感じ。
広漠としていて、それから先になかなか進めない。
これは意識の定義が広汎すぎるからだろう。
たとえば、月ロケットを打ち上げようとして、「どの方向に打ち上げたら良いですか?」と質問したら、「地面以外の方向です」と言われるようなものだ。確かにその通りだが、それだと打ち上げるのに困るだろう。
ただ、基礎としては良いかもしれない。上記のコッホもこの情報統合理論の上に意識についての自説を展開している。

ただ、オレはいつも思うのだが、たとえば、「赤シャツ」という意識内容ないしは情報は、それ単独では存在し得ないのではないか。
ハイデガーやサルトルの「投企」ではないが、人の何かの企てがあって初めて、赤シャツが意味を持つようになる、あるいは存在を始める。それ以前には存在しないのではないか。

企てがなくなった時、意識はどうなるのか。
choiceless awreness 「無選択の気づき」という言葉があるが、これは情報統合理論ではどうなるのか。
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