ぱるばか日誌 2017
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ダマシオ『自己が心にやってくる』
 邦訳されているアントニオ・ダマシオの最新作。原著は2010年。今のところ全部で四作だ。
 (一冊目『デカルトの誤り』原著1994年。二冊目『無意識の脳・自己意識の脳』原著1999年。三冊目『感じる脳』原著2003年)

 この四冊目、邦題は『自己が心にやってくる』。原著タイトルはSELF COMES TO MIND。
 邦訳副題は『意識ある脳の構築』。原著副題はConstructing the Conscious Brain。

 だいたいにおいて本書の内容は、二冊目『無意識の脳・自己意識の脳』と重複する部分が多い。
 ひとつ新しいかなと思えるのは、タイトルに表される通りだ。すなわち、ダマシオによると、「意識が現れるのは、心に自己がやってくることによる」、ということ。

 ダマシオによれば、「心」Mindというのは、脳による「身体ならびに外的対象」の、イメージング(表象)だ。
 これは人間のみならず、動物の多くに見られるであろう現象だ。しかしそれはまだ意識ではない。
 意識なるものは、その心に、「自己」が加わって初めて現れる。
 
 では自己とは何か。
 そのメカニズムは、本書ならびに第二書『無意識の脳・自己意識の脳』で述べられている。すなわち、「原自己」「中核自己」「自伝的自己」だ。
 ひらたく言うと、自己は、脳内イメージに、指向性をもたらすものだ。
 指向性というのは、目的に従って、物事を構成すること。優劣をつけるということだ。脳について言えば、生存に資するため、雑多な脳内イメージに優先順位をつけて構成する。自己がその焦点となり、イメージが再構成されるということだろう。そうして意識が生じる。
 それを説明する例として、眠りからの覚醒が挙げられる。眠りから覚めると、脳内には何らかのイメージが生じるが、まだ、たとえば「自分はどこにいるのか」とか判然としないことがある。これはまだ指向性がハッキリしていないからであろう。だから、完璧に意識があるとは言えない。

 著者によると、細胞ないし単細胞生物には、「できる限り生き延びようとする不断の決意」のようなものがあるという。そして人間の「生きる意志」というのは、そうした細胞の原始的な意志の集合体だという。「命ほど大事なものはない」と言われるが、その源は、それぞれの細胞に仕組まれているわけだ。だから誰しも死にたくはないということ。
 著者は所論の援用に、進化的な視点を多用する。それに従って言えば、大昔のあるとき、「できる限り生き延びよう」と決意した単細胞生物が生まれ、それが増殖し、適者生存によって磨きをかけられ、現在の我々が生まれた、ということになるだろう。この決意から人間意識や人間社会の生成発展の道筋は、著者の所論に従えば首尾一貫しているように見える。
 この決意を持った単細胞生物の出現が偶然であったなら、我々の存在も偶然の産物ということになる。
 さて、この決意は単なる偶然なのか、それとも…。

 瞑想について関係ありそうな点が二つ。
 ひとつは「あたかも身体ループ」。生命の根幹は、苦と快、あるいは忌避と愛好と言えるであろう。脳が苦を感じるのは、身体が忌避すべきもの直面した時だ。ところが、進化の過程で、身体が直面せずとも、脳がそれをシミュレートできるようになった。すなわち、あたかも身体が何かに直面したかのごとく、脳が自分で苦も快も作り出せるということだ。それゆえ、無為に坐っていても、あたかも美食や美女を得たかのごとくの快感を得ることができるということ。これが著者の提唱した「あたかも身体ループ」だ。なんか瞑想に似てない!?
 もうひとつは、前にも『無意識の脳・自己意識の脳』のところで書いたが、大脳皮質の発達によって人間に花開いた「自伝的自己」。それによって人間は地上の王者となったのだが、反面、この自己は先取りが得意で、とかく取り越し苦労をしてしまう。今現在まったく満ち足りているにもかかわらずだ。「空の鳥を見よ、野の花を見よ」とイエスも語る。そうした自伝的自己、すなわち心の計らいをしばらく休ませ、満ち足りた今にくつろぐ。これも瞑想の目指すところであろう。

 ところで、本書を熟読しようとするなら、原書の入手も必須であろう。というのも、翻訳があまり良くないからだ。誤訳・不適訳が散見され、もともと難解な本が、輪を掛けて難解になっている。幸い、英文原書はAmazonから簡単に(そして訳書より安く)ダウンロードできる。原書をiPhoneに入れて文鎮代わりに使いつつ参照しながら読むというのが、本訳書との正しいつきあい方であろう。(訳者あとがきはよくできているが)
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