ぱるばか日誌 2024
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空蝉異変
ここ養沢の谷では、いろんな蝉の鳴き声が聞こえる。
夏の訪れとともにまず、ヒグラシとニイニイゼミが出現。
次いで、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシの順だ。
この五種の蝉は、かつてぱるば少年の昆虫標本にもよく登場した。

この中で一番好きなのはヒグラシ。
夏休み、信州の高原で耳にすることが多かった。
夕方、冷涼の空気の中、やや物悲しい風情が良い。
一番嫌いだったのはツクツクボウシ。
こいつは信州にはいなかった。
祖父母の許で過ごした楽しい夏休みも終わり、東京に戻ってくると鳴いていた。だから嫌い。

最近、ここ養沢で、耳慣れぬ蝉の声を聞く。
よく西国で鳴いているやつだ。クマゼミ。
五日市に来て24回目の夏だが、初めてのことだ。
気候変動にともなってクマゼミが東進しているという噂は聞いたが、ついにここまで到来か。
子供の頃、図鑑で見たことがある。黒くてデカいやつだ。
東国少年の昆虫標本に納まっていたら、きっと鼻高々だったことであろう。

そこで一句:
鳴いたとて採る網もなし黒き蝉
嫌韓嫌中
新聞の世論調査によると、我が国で韓国や中国を良く思わぬ人がどちらも九割を超えるという。
オレはヘソ曲がりだからな。
世間が嫌韓嫌中に傾くほど、好韓好中になるのだ。

先日も見知らぬ中国人からメールが来た。
北京でweb雑誌をしている人で、弊社を取材したいという。
どんな雑誌かよくわからんが、オレは書いてやった ― こういう御時世だからこそ文化的な交流の増進が必要、喜んで取材を受けるよ。
すると相手も書いてきた ― 同感、ホント政治はウンザリ、私たちはあくまでも両国の文化交流に励もう。

中国人もいろいろなのである。
日本人もそうだが。
仁古田地下飛行機工場
実家のある上田市仁古田(にこだ)地区。
市心から西に八キロほど離れている。
静かな農村だが、大戦末期のある時、にわかに騒がしくなった。
三菱重工の地下飛行機工場が来るというのだ。

戦況は日毎に厳しくなり、捨て身の本土決戦に備え、信州松代に大本営を移す計画があった。
その一環として、松代から三十kmほど離れた上田周辺に陸軍の戦闘機工場を作ろうというのだ。
昭和二十年五月のこと。

工場は四ヶ所ほどに分散建設する。
ここ仁古田地区には、エンジン工場が計画された。
実家はやや大きな農家だったから、建設隊の事務所が置かれた。
「第一地下建設部隊 上田建設隊本部」という看板が今も残っている。
母屋二階の蚕室が事務所になり、奥座敷には東京から来た運輸省の職員7名が寝泊まりした。
いずれも二十代前半の女性職員たちだ。
男性職員は別の農家に泊まり、事務所に通ってきた。
別棟の蚕室が食堂にあてられ、職員の炊事と食事の場となった。(今のギャラリー月のテーブル)
なぜ運輸省だったかというと、前身の鉄道省が丹那トンネルを完成させており、掘削工事のノウハウを持っていたからだ。

建設隊の公用車は黒塗りのフォードで、三十kmほど離れた松代本部とよく行き来していた。
当時17歳だった愚父は、運転手と仲良くなり、松代まで便乗ドライブしたそうだ。
敵国製の車を使わざる得ないくらいの国力だから、そもそも勝てるワケないのだ。

実家から数百m離れた山腹に横穴を掘り、双発戦闘機キ83用のエンジン工場を作ろうというもの。
工事の請負は西松建設。
実際の労働は朝鮮半島からの徴用工が主となる。その数は最終的に千五百とも二千とも。
現場近くの田んぼに、大きな木製バラックが幾つも建てられる。
劣悪な環境のもとの労働だから、それなりの犠牲者も出たことであろう。
ただ、ほどなく終戦となったので、悲惨な話はそれほど伝わっていない。

一度、米軍のグラマンが低空で飛来したそうだ。
秘密工事ではあったが、おそらく状況は把握されていただろう。
まだ完成は遠いということで、攻撃は免れたのかも。
これで本土決戦ということになり、実際に工場の稼働が始まったら⋯
実家周辺は猛爆に晒されることになっただろう。

参考文献:
「上田地下飛行機工場」
1995年8月 仁古田等地下飛行機工場調査保存の会編
沓掛温泉
信州上田周辺には幾つも温泉がある。
名高いところでは、別所温泉とか鹿教湯温泉とか。
名高くないのが、沓掛温泉とか。
「くつかけ」と読む。

上田市の西方、青木村のどん詰まりにある。
母親が行きたいという。
別所ではなく、沓掛が良いと。
なぜかというと、猛暑だからだ。

別所温泉には石湯や大師湯など著名な共同浴場があるが、いかんせん熱く、浴後が思いやられる。
その点、沓掛温泉は比較的低温だ。
特に共同浴場「小倉乃湯」の浴槽のひとつは、40℃ないと思われる。
いつまでも入っていられる。

ほんとは体温くらいの湯温だと、身体が消失するみたいな瞑想的効果があるんだが⋯。
愚母の終戦
我が母は昭和八年、東京・世田谷に生まれる。
12歳になった昭和20年5月23日夜、米軍による空襲を受ける。
近くの根津山にあった高射砲陣地が主な爆撃目標であったらしいが、母の家のある代田二丁目の住宅地には焼夷弾が落とされる。
焼夷弾は上空で分裂し、家の軒先に吊り下がって燃えていたりする。
人々はそれをたたき落としたりして火災を防ぐのであるが、母の自宅周辺は火の手が激しく、一家は家を捨てて避難する。
両親(我が祖父母)と一男四女の計7人。母は下から二番目だった。小児麻痺であった長男を祖母が背負い、祖父は鍋釜や米を背負い、15分ほど離れた農家の麦畑に逃れる。
その麦畑で一夜を過ごすが、遠く新宿方面の火災が望見される。
翌朝は、祖父の持ち出した鍋釜で米飯を炊き、皆で食べる。なかなか用意の良い人だったようである。
近所の家々も皆焼け落ちたが、幸い、死傷者の出た様子はなかった。
その後、一家七人はしばらく下北沢に家を借りて住む。

翌六月、一家は東京を離れ信州上田に疎開する。
祖父の生まれ故郷だ。
ここ上田は山奥過ぎて、空襲らしい空襲もない。東京に比べたらずいぶんのんびりしていた。(じゃなきゃ疎開の意味もない)
ただ、祖父の実家も、突然、人口が七人も増えたのだから、食料逼迫の折、きっとタイヘンだったことであろう。
祖父は実家に迷惑をかけぬよう、方々回って自分たちの食料を調達するのであった。

8月15日。
昼から天皇の放送があるというので、皆でラジオに耳を傾ける。
戦争が終わったということで、大人達は大喜び。
電灯につけた覆いを外したりしていた。
翌年、祖父は上田近郊の別所温泉に家を購入。以来、そこが母の実家となる。
十年後、その家でオレが生まれたというわけ。
初子は嫁の実家で生むという慣習があった。

今日、母と妹ともども、北向観音に参拝がてら、その家を訪ねてみた。
祖父母も伯父もとうに世を去り、家も人手に渡っていた。
愚父の晩年〈現在進行形〉
長野県は平均寿命が男女ともに日本一だ。
そのせいか知らぬが、ウチの父親も元気。
昭和三年生まれの85歳。

猛暑もやや和らいだ夕方、「オイ、ちょっと手伝ってくれ」と声をかけられる。
田んぼにスズメ除けの網を張るのだという。
久しぶりの実家だし、ちったぁ手伝ってやらんとな。
駐車場に行くと、見慣れぬダイハツの軽トラ。
昨年、新車で買ったんだという。
まだやるつもりなのだ。

田中巨峰園という名で、主にブドウを作っている。
その傍ら、米や野菜も。
米は年々減らして、今年は二百坪くらい。
それでも家族の食うくらいの米は穫れる。

三十年ほど前に会社を退職、帰農している。
ってことは、オレの歳には百姓になっていたわけだ。
そういう手もあるんだな。
涼しいし、蚊も少ないし、いいかも。

だけど、オレと違って、長年マジメに銀行員として勤め上げた人だしな。
年金もそれなりに出るし、余裕があるわけだ。
やっぱオレは、インドから足は洗えぬか⋯!?
信州の威力
信州上田の実家に来た。
ご多分に漏れず、気温が高い。
上田の今日の最高気温は34℃台。明日は35℃まで上がるという。
ただ、東京から来ると、気温は同じくらいでも、快適なのだ。
湿度が低いからだ。
上田の最高気温は長野県でもトップクラスだが、当地は全国でも有数の乾燥地帯なのである。

ここ上田で、もうひとつ快適なことがある。
蚊が少ないのだ。
このあたりが、東京とかインドに比べ、魅力的なところ。

先日、ムンバイ近郊に三日ほど滞在して、つくづく感じたものである ―
オレはここには住めない。蚊が多すぎる。
ムンバイ人は平気なのだな。
というか、蚊に強い遺伝子を持った人しか生き残れないのだ。

オレなんか、たとえば四人いる祖父母のうち、三人までが上田人だからな。
蚊に弱い遺伝子を豊富に受け継いでいるのだ。
蚊と言ってもバカにできないんである。
歴史上、蚊のいなかったハワイ諸島では、在来種の鳥は、蚊に刺されると死んでしまうのだ。

ただ、蚊に弱いせいで助かったこともある。
昔、西アフリカで働いていた頃だ。
寝室に一匹でも蚊がいると眠れないオレである。
同僚たちの中には、酒をくらって、そのまま眠り、蚊に刺されまくったヤツらもいる。
マラリア汚染地区だったから、見事に罹患した。
原虫はいちど棲みつくと、一生抜けないのである。
応急の注射は、男でも泣くくらい痛いんだそうだ。
幸いオレは無事に一年を過ごした。
これも信州の威力か。
そういえば先月訪れたスペインのアンダルシア地方もそうだった。
暑くて、乾燥していて、快適で、蚊がいなかった。
インド de 特典航空券
インド滞在中。
いちおう、来週の9日には帰途に就こうと思う。
エアラインのマイレージもいろいろ貯まっているので、今回はそれを使ってみようと思う。

まず、Air India。
ここは片道でも使えるから便利。
座席指定もできる。なんかガラガラだから、横になって帰れるかも。
9日夜のデリー・成田Yクラスを予約して、さて、付加料金を払おうとクレジットカード番号を入力すると…
これが何回やっても拒否される。
特典航空券というのは運賃のみで、燃油加算金などは別途徴収されるのだ。
ちなみに、インド航空デリー・成田Yクラスのネット料金は33,651ルピー、付加料金は1万4千ルピーくらいだったかな。まるっきりタダというわけではないのである。
ともあれ、その付加料金が払えないから予約できない。そこで翌朝、日本のカード会社に電話していろいろ調べてもらったが、カード会社には問題ないようだ。そこで再びAIのサイトで再試行したが、やっぱり支払い段階で頓挫。
今までAIのサイトでこうした問題はあまりなかったから、これは特典航空券のみに関する現象かもしれない。
やっぱ、エア・インチキだ。
ただ、昨年であったか、日本で社員にAIの特典航空券を手配した際は大丈夫だった。おそらくネット環境に左右されるのであろう。
そこで、AIに電話して、アナログで予約を試みる。すると、予約はできるのだが、チケットの受け取りはAIの支店まで行く必要ありという。AIの支店に行ったことある人ならご存知であろうが、まるきりインドの役所だ。チケット購入も半日仕事。しかも私の滞在場所はヒマラヤ山麓デラドンだ。デリーまで行かないと支店はない。それでこれもボツ。

AIは諦め、JALの特典にする。
これは往復の予約が必要だ。
マイレージは多量に貯まっているので、ここは奢ってEクラス。
ところが、9日の便はウェイティング。いちおう申し込んだが、ウェイティングは当日24時で失効する。
今朝、ダメもとでチェックすると、Eクラスがひとつだけ空いている。だったら連絡してくれりゃいいのに、そういうことはない。おそらく朝、誰かがキャンセルしたのだろう。ともあれ、速攻で押さえる。JAL特典航空券は一年以内ならいくらでも変更可能なので便利だ。
付加料金は3万5千円くらい。これもクレジット経由だが、問題なくクリア。やっぱJALは良い。
ちなみに、付加料金はEクラスもYクラスも同額みたいだから、Eにはおトク感がある。

ついでに、デラドン・デリー間も特典でやってみる。
相手はインド民間航空No.1のJet Airways(9W)。
特典航空券は空きがなかなか無いんだが、幸い、目的の便に空席がある。
付加料金のクレジット支払いもスムーズ。やっぱ差がつくなあ、AIとは。
正規の料金は2775ルピーで、付加料金は円建て1570円。ざっと三分の一だな。
あんまりトクした気分にはならないが、ま、ゲームだ、これは。
インドでiPhone 2013夏
インドでiPhoneを繋げるってのは、ちょっと微妙なところがある。
特に、テザリングをしたければ。
今回も、iPhone5とiPhone4Sを試みる。

5は通常、日本でdocomoのSIMを入れているものだが、インドに到着してairtelのSIMに換えたところ、あっさり開通。テザリングもできる。
設定も何もいじらなかった。
というか、いじるためのパネル(「モバイルデータ通信」の中の「モバイルデータ通信ネットワーク」など)が現れないのだ。

ところが、4Sに手こずる。
直前にタイ国で、現地のSIMを入れて、USB経由でテザリングもできていたという。
インドでairtelのSIMを挿したところ、データ通信はできるが、テザリングができない。
モバイルデータ通信ネットワークの設定パネルも出てこない。
インターネット共有のパネルも出ない。
通信設定のリセットをしても変わらず。
そこで、iOSを最新の6.1.3に更新してみたが、やはり状況は同じ。
同じairtelのSIMなのに(片方はnanoで片方はmicroだが)、どうして違いが出るのかよくわからん。
5はiOSが6.1.4だから、そのあたりに何かあるのか。

万策尽きて、試みに、手持ちのvodafoneのSIMを挿してみる。
すると、Bluetooth経由のテザリングはできる。
モバイルデータ通信ネットワークやインターネット共有のパネルもしっかり現れる。
iPhoneはキャリアによって設定画面が変わるようだ。
USB経由のテザリングはダメ。こういうケースも珍しい。
ともあれ、Bluetooth経由の方が便利でもあるので、4Sは今回vodafoneで使うことにする。
もちろん、電話番号は変わる。

こんな具合に、インドではほとんど毎回電話番号が変わることになる。
テザリングをしないのであればまったく問題ないのだが。